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2022.11.21

「稗田山崩れ」を防災の“教科書”に 砂防施設見学など通し発信

 山崩れの規模から「日本三大崩壊」の一つに数えられる長野県小谷村の「稗田(ひえだ)山崩れ」について、県と村は災害の防災学習や観光振興に結びつける対策の検討を始めた。現場の直下近くまで車で行けるメリットを生かしつつ、数々の砂防施設の見学なども通して災害を後世に伝えるという。

 山崩れは明治末期の1911年8月8日午前3時ごろ、白馬乗鞍岳の東約5キロにある稗田山(1443メートル)の山頂部の北側斜面で発生。幅3キロ、高さ300メートル、厚さ1000メートルの土砂が崩れた。当日の天気は平穏で地震も記録されておらず、原因は不明。ただ、4日前ごろの大雨が引き金になった可能性はある。

 土石流の量は東京ドーム120杯分の1億5000万立方メートルと推定され、谷間の浦川を流れ下って集落を襲い、23人の命を奪った。また、本流の姫川との合流点に達して高さ60メートルのダムを形成。姫川上流数キロの集落まで浸水した。翌12年の4月と5月にも大規模に崩壊し、7月の大雨では天然ダムが決壊。いずれも住宅や農地に大きな被害が出た。

 浦川を含む姫川流域は、大断層の「糸魚川・静岡構造線」に当たり、地質がもろい。現在も流域では少しずつ崩壊が進んでおり、対策工事が盛んだ。村観光連盟は2012年から、さまざまな構造の砂防施設を巡る「砂防ダムツアー」を年数回実施。好評のため、内容の充実を図っていくという。

 この活動も踏まえ、村役場で7日にあった1回目の「稗田山崩れ等伝承委員会」では、現地や砂防施設を「災害伝承資産」として防災意識の向上に活用することなどを了承した。25年3月末までに具体的な対策をまとめ、早期に実施できる取り組みはそれ以前に開始するという。委員長の田下(たした)昌志・県建設技術センター理事長は「災害を克服し、安心して住める地域になったことを一つの文化として発信したい」と話した。【去石信一】

幸田文が「崩れ」でルポ

 日本三大崩壊のうち、「大谷(おおや)崩れ」は1707年、現在の静岡市葵区にある大谷嶺で起きた。南海トラフ沿いで発生した宝永地震をきっかけに、山梨県早川町と境を接する尾根の南側斜面が崩れ、土砂が大谷川を流れ下った。その土砂で平らに埋まった土地は現在、宅地や農地に利用されている。土砂が本流の安倍川に流れ込んでできた湖は水が引けた現在、広い川床として名残をとどめている。

 もう一つの「鳶山(とんびやま)崩れ」も1858年、地震をきっかけに富山県の立山で起き、土砂が川をせき止めた。この天然ダムが2度決壊し、死者140人、負傷約9000人の被害が出た。国土交通省などによる周辺の砂防工事は現在も進んでいる。

 文豪・幸田露伴の次女で作家の幸田文(1904~90年)は、三大崩壊を含む全国の土砂災害現場をルポした作品「崩れ」を残している。

 77年7月7日、稗田山崩れの取材で小谷村も訪れた。発生から既に66年がたち、災害時を直接知る人には会えなかった。「連立って話してくれる人は実直に『という話です、だそうです、らしいけれど』と、いう。道のべに生い茂る夏草は、いきおいよく鮮やかに青く、まことに歳月茫々(ぼうぼう)の思いにうたれる」と、時の経過を感慨深げに書いている。災害現場を間近に見渡せる場所まで行ったが、この日は霧で荒々しい崩壊斜面を目にすることはできなかった。

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