2020.04.09
名治水家だった武田信玄 緒方英樹 連載4
水害のトラウマ
上杉謙信と戦った川中島の合戦でよく知られ、風林火山の旗印が有名な武田信玄。織田信長に恐れられ、信長・徳川家康連合軍を三方ヶ原で打ち負かした戦国の猛者ですが、幼いころから水害に悩まされる土地で育ちました。
信玄が生まれた甲斐国(山梨県)の語源は、「峡(かい)」といって四方を山に囲まれた谷を表したものとされています。山に降った雨は川に注ぎ込み、洪水を起こすと、石や泥と一緒にものすごい勢いで甲府盆地に押し寄せたのです。家を、田畑を、人馬を流す大洪水、生活や風景を一変させてしまう自然の猛威を、信玄は子どもの頃から心に刻んだことでしょう。
JR甲府駅前にある武田信玄像
山梨県甲府市のJR甲府駅南口で降りると、塩山御影石台座の上に、右手に軍配、左手には数珠を持った堂々たる武田信玄像が迎えてくれます。川中島の戦い陣中を模した像のようです。
大いなる変革の嵐の中で
戦国の猛者・武田信玄が優れていたのは戦の仕方だけではありませんでした。笛吹川、釜無川、その二つが合流する富士川といった暴れ川を治めるため、数多くの土木工事を成功させた名治水家でもありました。
でも、なぜ戦国武将である武田信玄が土木事業を行ったのでしょうか。
私たちの多くが持つ戦国時代への興味は、武将たちが群雄割拠するドラマチック性に向けられることが多いようですが、一方、戦国時代とは、鎌倉時代から室町時代にかけて形成された社会秩序が解体されていく転換期と見ることもできます。
守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり、領国を統治していきます。彼ら戦国の武将たちは、体制から離脱、自立して、独自に地域の支配権を主張あるいは獲得していきました。そうした社会状況の中で、家臣が盟主を追放する下剋上という風潮が醸し出されたことでしょう。武田信玄による、父・信虎の国外追放もまたそうした風に促され、家中や領民を巻き込んでの権力闘争に突き進んでいきました。
合戦によって領地を奪い合った戦国時代は、激しい経済競争の時代でもありました。経済に強い武将と弱い武将の差は、戦争に大きく影響しました。その経済力を高め、領地と領民を守るための土台を支えたのが、土木力であったと言えるでしょう。領土の内政を確立し、経済基盤を持つことが戦国時代の覇者となれる必須条件とするならば、治水や築城など土木技術に長けることが戦国バトルを勝ち抜く大きな要素であったと考えられます。
武田信玄が築いた信玄堤。甲斐市竜王にあり、現在、周辺は公園として整備されている
水に逆らわず、水の力を利用する
信玄が父を追放して武田家17代当主を継いだ頃の甲斐国は、危機的状況に置かれていました。
「国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ」(『塩山向嶽禅庵小年代記』山梨県指定文化財)。
人民はおろか牛馬畜類まで苦悩していたと記録されています。相次ぐ戦乱と重税で内政は乱れ、繰り返す水害で民衆は疲弊しきっていたのです。
そして、21歳の信玄が甲斐の領主になった翌年の1542(天文11)年、富士川の大洪水が甲府盆地を呑みこみます。若き領主は、思案のあげく、水の観察から始めます。「水はどう流れ、土砂はどう動くのか」。地形や山の様子を丹念に調査し、会議の場を何度も設けます。家来の意見をよく聞き、出自に関係なく優秀な人材を発掘し、水を鎮める知恵や工夫すなわち土木のやり方を討議、ある結論に達します。
「水の力に逆らわず、水の力を利用する」。
信玄が得意とした合戦になぞらえて言うなら、敵(水)の勢いを味方につける作戦でした。自然と共に生きる哲学をもって信玄の土木事業は始まります。
信玄は、川の水が大洪水を起こす前に、あちこちで水のエネルギーを弱める様々な作戦を考えます。特に、大きな被害を及ぼしているのは、釜無川と御勅使(みだい)川が合流する地点だったので、そこに段階的な作戦を仕掛けました。その代表的なものが、当時、土手の長さが350間(約650メートル)と推定される信玄堤です。急流河川に敷設された不連続堤防は、霞堤とも呼ばれます。
信玄堤という堤防を本合戦場とみなし、手強い敵の力を次々と弱らせて迎え撃つ。それが信玄と家来たちが考えた作戦でした。現在の言葉で言えば、氾濫(はんらん)の洪水流を段階的に弱めていく減災システムです。
山地から激しい水と土砂をもたらす御勅使川。その川の中に角張った石を積んで石垣を築き、流れを南北に分けます。その堰の形から将棋頭(しょうぎがしら)と呼ばれています。するとどうでしょう。二分された川の流れは、強さも二分されて弱まりました。二分されてできたた新しい川・新御勅使川は、竜王高岩という岸壁にぶつかるように仕向け、さらに水勢を弱めさせました。
さらに、長さ650メートルほどの土手と1キロにも及ぶ石積堤が築かれました。信玄堤です。堤には姫笹を植え、堤の内外にも松などで水の侵食から河岸を守る水害防備林をつくって万全を期しています。これらの大規模な治水工事は、川中島の合戦などを何度も挟んで20年ほどかかったとみられます。
信玄によるこうした領地の社会資本整備は、戦乱を勝ち抜くための必要不可欠な前提だったのです。信玄のみならず多くの戦国武将たちによる土木技術の経験と蓄積が、江戸から明治の近代化、今日の社会資本につながっているのです。
川の氾濫時に流れを弱めるやぐら「聖牛」。釜無川の先に見えるのは、南アルプスの山々
日本独自の治水技術を開拓
『明治以前日本土木史』(土木学会編)第一編には、信玄の治水事業について次のように記述されています。
「信玄は、甲府盆地の水害を除却せんが為め、釜無川に始めて霞堤を築造し、又水制として優秀なる聖牛(ひじり)、棚牛、尺木牛、胴木牛、尺木垣等の工法を創設し、尚林制を厳にして水源の涵養を図れり」。
聖牛(ひじりうし・せいぎゅう)については、「地方凡例録(ぢかたはんれいろく)」という江戸時代後期に書かれた農政書に、武田信玄の創案により釜無川、笛吹川に施工されたと記されています。その後、信玄の勢力圏拡大に伴って天竜川、大井川、安倍川、富士川に伝わり、各地へ伝播していったようです。また、笛吹川では、流れの一部を万力林(まんりきばやし)という広い林に導き、林の中にも小さな堤防を幾つもつくって水防林と成し、下流のまちや田畑を守ったということです。
このように、自然の力をうまく利用した日本独自の治水技術は甲州流と呼ばれ、現在も河川工学の源の一つです。信玄堤は、江戸時代や明治中期に改修が繰り返されるも、今に残る貴重な土木遺産となっています。
毎年4月に釜無川の水防を祈願するために行われる祭り「おみゆきさん」
「ソコダイ、ソコダイ」。毎年の春4月、威勢のいい掛け声と共に神輿が信玄堤を練る。女装束の担ぎ手たちが踊りながら三社神社へと進む。古くから伝わる川除(かわよけ)祭、通称おみゆきさん。釜無川の氾らん防止を祈願する水防祭りです。この祭りを復活させた武田信玄には、集落の氏神を堤防の頭に移し、参道となる堤を住民自らが大事にして、大勢の人たちによって堤防を踏み固めさせるねらいがあったと思われます。
信玄の土木事業で注目すべきは、治水工事が完成した後も、新田開発というアフターフォローによって有効な土地利用、地域開発を行うことで領民の愁眉を開いたということです。まさに、理想的な土木技術者像を見る思いです。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日更新