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2020.08.02

明智光秀の治水術 緒方英樹 連載6

明智光秀は築城の名手だった!

 戦国時代とは、一般的には応仁の乱(1467年)以降、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして天下統一した安土桃山前期(1590年)あたりまでと言われてきましたが、近年、大坂夏の陣まで含めて15世紀半ばから17世紀初めまで200年間を戦国時代とする説もあります。いずれにしても、合戦によって領地を奪い合った大変革の時代でした。

 そうした時代を生きた戦国武将にとって、戦の基盤となる領土の内政を確立し、経済基盤を持つために、領土を守る治水や築城など土木技術に長けることが戦国バトルを勝ち抜く基本的な要素であり、ひいては戦国時代の覇者となれる必須条件でありました。

「明智光秀肖像画」(本徳寺所蔵)=岐阜県可児市提供

 戦国時代に来日したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスは、主君・織田信長に謀反した明智光秀に対して、謀略と策謀の人物と容赦なく記述していますが、それでも、光秀の築城については「造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」(『日本史』=松田毅一/川崎桃太・編訳)と評価しています。
 

 フロイスが安土城(滋賀県近江八幡市)に次ぐ名城と評した坂本城(滋賀県大津市)は、比叡山焼き討ちの後、叡山の監視を目的に信長が光秀に命じて築かせた平城です。西に比叡山、東に琵琶湖を擁する天然の要害でした。本丸が琵琶湖に突き出した水城(すいじょう)であるため、城内には琵琶湖の水が引き入れられていました。「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参る」と茶会に招かれた境の茶人・津田宗及が茶湯日記に記しているように、城内から直接船に乗って安土城へ行くこともできたことでしょう。

 大と小、連結する天守閣をもった城という記述も見られます。京都の吉田神社神主で信長や光秀と親しかった吉田兼見(1535-1610)の書いた『兼見卿記』にも、「明智見廻の為、坂本に下向……城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」と、天守の見事さが記されています。織田信長による幻の名城・安土城築城以前のことです。

 本能寺の変後、焼失した坂本城は、その後に再建されますが、1586(天正13)年11月29日夜10時頃、マグニチュード7.9とも言われる天正の大地震が発生。琵琶湖周辺の集落が液状化や地盤沈下で沈みます。その時、豊臣秀吉は坂本城にいたのです。なぜか。秀吉は、湖水に面した坂本城の風光明媚を殊(こと)のほか気に入っていたのです。しかし、あまりの強い揺れに、肝をつぶして一目散に大坂城へ逃げ帰ったことをルイス・フロイスは記述しています。

 1979(昭和54)年に実施された発掘調査では、10~30センチの焼土層が発見されました。これは、明智秀満が天守に火を放ち落城した時のものと推定されています。その時、本丸の石垣や石組井戸・礎石・建物等も発見されています。全山総石垣を誇った安土城以前、光秀は石垣や礎石など石造りへのアプローチを試みていたのかもしれません。

1994(平成6)年、琵琶湖の水位低下で姿を現した坂本城の石垣跡(写真左)と、発掘調査報告書などを基に制作された坂本城のジオラマ。水辺の城として水陸交通の要衝だった

福知山のまちづくりと治水

 1579(天正7)年、光秀は丹波国に築かれていた横山城を攻略します。光秀は、ここを丹波の拠点として近世的な城郭を築き、城名も福知山城と改めました。京都府福知山市の横山丘陵先端の地形を利用して築かれた平山城です。

 光秀の福知山治世はわずか3年足らずでしたが、丹波統治の拠点として築いた亀山城と同様に、墓の石塔類まで石垣に使っています。銅門番所の左横に展示された転用石の説明版などからは、「石垣に利用する大量の石材が近辺になかったこと、築城に時間的余裕がなかったこと」に続けて、「旧地元勢力・権威の否定」、あるいは「城を守護する意識」などの理由がうかがえます。また、城郭本丸内にある遺構「豊磐(とよいわ)の井」は、深さ50メートル、井戸底は海面下7メートルにも達していていました。

江戸時代の絵図や天守平面図を基に復元された福知山城

 光秀は、城下町整備にも力を入れており、治水事業を行っていました。現在も福知山というまちの基礎となっています。

 戦国時代の城づくりは、防御主体の山城から領国経営主体の平山城、平城へ移行していき、城を中心に城下町が形成されました。領国の中心となる城下町建設は、織田信長の安土が先駆とされますが、光秀は堤防を築いて由良川の流れを変えて城下町をつくり、町に地子銭(じしせん)、税金免除の特権を与えて商家を育てたと伝えられています。

 福知山は由良川から運ばれた土砂により土地が形成され、由良川の水運により豊かさを得てきました。一方、度重なる水害は、今に至るまで大きな悩みであり、多くの人が様々な考えを巡らせてきました。福知山市治水記念館では、1953(昭和28)年に起こった台風13号による水害から50年を経過したことを記念し、明治期に建てられた古民家を改修して開館されました。災害の記憶を後世に語り継ぐことを願ってのことです。

 由良川の一角にある明智藪は、光秀が水害対策の一環として造営したと伝えられています。現在は北端が残るのみですが、かつては福知山を流れる由良川が土師(はぜ)川と合流する地点で、たびたびの氾濫を起こしていた場所です。由良川の流れを大きく北に付け替えるために造った堤防が明智藪だと言われています。

 由良川と福知山は一体であり、豊かさも厳しさも与えてくれることが、福知山市の研究冊子『福知山の治水とまちづくり―明智光秀・城下町・治水―』からも知ることができます。

福知山城の大天守閣の石垣に多用されている転用石(写真左)と土師川との合流部にある明智薮。光秀は福知山城(右奥)の築城の際に堤防を造り、由良川の流れを変えた

 城下町を失った城を「裸城」と呼んだように、城下町は町を防御する城壁であると同時に、町を繁栄させる懐でもあったのです。その城下町を由良川によって形成された微高地である自然堤防上に光秀が築いたことは、最近の研究で刮目されてきています。

 このように、光秀による城普請は、石垣の城・安土城へ至る段階の中で、近世城郭への転換にとって一つの役割を持ち得ていたと言えるでしょう。そうした光秀の才覚・力量を主君・織田信長はどのように受け止めていたのでしょうか。

 明智光秀は、丹波地方発展の礎をつくった恩人、「御霊さま」と地元では慕われています。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日更新