ソーシャルアクションラボ

2020.08.17

コロナ禍の今振り返る 後藤新平と西郷菊次郎 緒方英樹 連載7

世界が注目した後藤新平のコレラ感染防止対策

 今、私たちの日常は非日常化して、新型コロナウイルスの感染拡大という先の見えない不安に襲われています。そして、指導者の眼差しも揺れています。ウィルスの持つ得体の知れなさと同時に、ヒトの心に宿す得体(本性)への不信も見え隠れしているようです。

 こうした世界的異常事態は前代未聞のことですが、手本はないのでしょうか。はたと思い浮かぶ人物がいます。後藤新平(1857-1929)です。

東京市長や関東大震災からの復興の立役者として知られる後藤新平だが、その基本には医師、科学者としての目があった


 日本では、1877(明治10)年ごろからコレラが流行し、79年と86年には死亡者数が10万人を超えました。急激な早さで死に至ることから、「虎列刺(これら)」と書かれました。一日千里を走る虎になぞらえたのです。

 内務省が発した「虎列刺病予防法心得」では、伝染病予防のため下水の溝を掃除するように指導しています。消毒には「濃厚石炭酸水」(消毒用フェノール水)が用いられましたが、コレラの猛威は全国に広まっていきました。そんな時代に救世主のごとく現れたのが後藤新平だったのです。

 後藤は、東京市長としての大改革や帝都復興の立役者など有能な行政官僚というイメージがありますが、基本的には医者であり、科学者でした。

 89(明治22)年、内務省衛生局長、長与専斉の誘いで衛生局技師となった後藤は、「国家衛生原理」を自費出版しています。33歳の時のことです。そこには「衛生」とは文字通り「生を衛(まもる)」ことであり、狭義の病気から守るだけではなく、天災や他国からの侵略から守るという広義の意味が込められています。

 95年に臨時陸軍検疫部事務官長に任ぜられます。94年に起きた日清戦争の終結で、コレラやチフスが荒れ狂う中国大陸から帰還する兵士23万人余の検疫の責任者となったのです。

 後藤の出身地、岩手県奥州市にある同市立後藤新平記念館に、後藤が中心になってまとめた報告書があります。その中の「臨時陸軍検疫部報告摘要」によると、コレラの患者を乗せて検疫所に入港した船は121隻、患者の死者数は752人、これに停泊中に発病した患者数は821人とあります。

 「その危険の恐るべきこと弾丸よりも大なるものがある」

 後藤が感染症を例えた言葉です。

 前代未聞の一大検疫事業に世界も注目しました。検疫開始は6月1日。陸軍少将にして臨時陸軍検疫部長を兼ねていた児玉源太郎は後藤を登用した人物で、終始、文人である後藤を後押ししました。

 後藤の発案した「検疫作業順序一覧」というチャート図が残っており、入港した船舶は海上で検疫官の徹底的な臨時検査を受けました。また、後藤は国内3カ所に大規模な検疫所をわずか2カ月で建設します。

 その一つが、大本営の置かれていた広島市と江田島市の間にある似島(にのしま)です。検疫の建物だけで54棟、関連する建物は139棟という大規模なものでした。検疫の担当者たちに、後藤自らが注意点などを講義、検疫所をオープンする前日には、1800人の市民や地元の名士を招いて地域の不安を取り除きました。「馬匹検疫所」では、軍馬の検疫まで行われました。

 後藤は3カ月間で687隻23万2346人を検疫、その半分近い258隻が伝染病患者を乗せていたのですが、コレラ感染者369人などを隔離して感染拡大を阻止しました。この迅速で的確な水際対策がなかったら、国内のコレラ患者数は莫大となっていたことでしょう。その報告を受けた当時のドイツ皇帝をも驚かせました。

 後藤の行動力は、関東大震災の際の的確でスピーディーな対応や、大風呂敷とも呼ばれた「帝都復興構想」が東日本大震災後に注目されたように、現代でも学ぶべき点が多々あるのです。

「生物学の原則」に立った台湾でのインフラ整備

 1898(明治31)年、当時、日本の統治下にあった台湾の第4代総督となった児玉源太郎は、内務省衛生局長にあった後藤新平をすぐに呼び寄せます。日清戦争からの帰還兵の検疫を短期間でやり遂げた手腕を高く評価して、民生長官として全権を託したのです。後藤が40歳の時のことです。

 科学者である後藤の方針は、「生物学の原則」によるものでした。これは、台湾を新領土とみなし、その土地や習慣を科学的によく研究・調査して政策を行うことでした。劣悪な衛生状態を改善し、港湾、鉄道、道路、上下水道など基本的なインフラの整備に総力を結集しました。

西郷隆盛の長男だった西郷菊次郎。その後、京都市長として、現在の京都の礎を築いた

西郷隆盛の子・菊次郎による宜蘭河の治水工事

 そんな後藤と同時代、行政官として活躍したのが西郷菊次郎(1861-1928)です。NHK大河ドラマ「西郷どん」にも登場した、西郷隆盛の長男です。隆盛が奄美大島に流されていた時に、地元の娘、愛加那との間に生まれ、父・隆盛と西南戦争に従軍して右足を失っていました。

 菊次郎は、後藤が台湾に着任する1年前の97(明治30)年、台湾東北部の宜蘭(ぎらん)庁長(知事)として赴任しました。当時、宜蘭では、毎年雨期になると宜蘭河が氾濫して農民を苦しめていました。菊次郎は民衆の信頼を得る第一歩として、宜蘭河の治水を地域住民に説き続けました。地域を水害から守り、流域を灌漑して田畑を潤せば乱れた人心も鎮まり、暮らしも豊かになると考えたのです。

 しかし、湿地帯に堤防を築くのは難工事です。巨額の費用もかかります。それでも、必死の熱情で総督府を動かし、事業が着工したのは1900(明治33)年4月でした。延べ約8万人による工事は、モッコや天秤棒で土や石を運ぶ人海戦術で、杖をついて監督する菊次郎の姿に地元の人たちは心打たれたことでしょう。そして、およそ1年半で竣工後、台風で堤防が決壊しないかと真夜中でも見に行ったという菊次郎の逸話も残っています。

 この河川工事で洪水対策を施した菊次郎は、さらに灌漑(かんがい)による新田開発や道路整備などを行って地域基盤を整えていきます。工事は1926(大正15)年まで続けられ、この工事で堤防の総延長は3740㌔にも及びました。

現在の西郷堤防と宜蘭河(左)と堤防の上に建つ西郷庁憲徳政碑。台北から宜蘭、羅東方面行きの国光客運バスに乗り宜蘭新店で下車、呉沙路を市内方向に徒歩約3分か、宜蘭駅からタクシー

 宜蘭河の堤防は西郷堤防と呼ばれ、その端に「西郷庁憲徳政碑」が建っています。そこには西郷菊次郎による徳政が刻まれています。05(明治38)年、地域有志によって建立されました。

 菊次郎は宜蘭庁長を5年務めた後、児玉源太郎の推薦で京都市長に就任します。菊次郎は、田辺朔郎が完成させた土木の金字塔・琵琶湖疏水事業の第2疏水の建設とそれを水源とした上水道建設、幹線道路を敷いて電気軌道を走らせるという3大事業を手がけ、28(昭和3)年、波乱に満ちた68年の生涯を鹿児島で閉じました。

 後藤新平と同じように、菊次郎もまた独自の思想から住民の立場を重んじた近代化政策を実行しました。新型コロナウイルスの世界的感染拡大に社会が揺れる中、先人たちの知恵に学ぶことは、非常に大きな意味があることだと思わずにはいられません。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日更新