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2020.08.21

伊勢湾台風で沈んだ名古屋市と輪中地帯 谷川彰英 連載8

「東海道」が消えた!?

 「東海道五十三次」は江戸時代に整備された江戸、京都間の街道、東海道にある53の宿駅を指す。国別に宿駅の数を記してみると不思議な事実が浮かんでくる。

 駿河国(12)遠江国(9)三河国(7)尾張国(2)伊勢国(7)と、尾張国だけが、なぜか「2」と圧倒的に少ない。それはなぜか? そこに今回の秘密が隠されている。

 現代人の我々は、東海道と聞くと名古屋を経て関ケ原を通って京都に向かうルートを想定してしまう。ところが、東海道はもともと名古屋の手前で突然消えてしまっていた! 消えてしまうと言えばややミステリアスだが、陸路をたどってきた東海道は名古屋の手前の宮宿で海路に変わり伊勢国の桑名宿に向かったのである。

 東海道で海路をたどるのはこの宮宿―桑名宿の間だけだが、それはこのエリアが古来河川の洪水と海からの高潮で悩まされる低湿地帯だったからである。

七里の渡し場跡にある鳥居=三重県桑名市で

 名古屋市の南に「七里の渡し」の跡が残されている。ここにあった「宮宿」(熱田神宮にちなんでこう呼ばれた)で陸路の東海道は一旦途切れ、ここから「桑名宿」まで七里(およそ28㌔)の船旅を経て京都に向かったのである。

広がる海抜ゼロメートル地帯

 この一帯は「海部郡」というところで、古来海人部(あまべ)が住んでいた地域である。市町村名でいうと、「蟹江町」「飛島(とびしま)村」「弥富市」「津島市」、そして三重県に入ると輪中地帯で知られる「桑名市長島町」などがある。輪中とは、このあたりで水害を防ぐために周囲を堤防で囲んだ集落地帯のことをいう。

愛知県弥富市の近鉄弥富駅(左下)周辺。奥は木曽川河口部

 「蟹江町」は全域が海抜ゼロメートル地帯で、しかも町の全域の4分の1が河川の流域で占められているという町である。「飛島村」も単に「島が飛び飛びにある」ことから命名されたもので、水には弱いことの証でもある。「弥富市」もその多くが海抜ゼロメートル。JR関西本線と名鉄尾西線の接続駅として知られる「弥富駅」は、この駅そのものが海抜マイナス0.93㍍で、地上駅としては日本で最も低い駅である。

 最後に三重県の「桑名市長島町」だが、ここも全域が海抜ゼロメートル地帯で、輪中の中に位置している。「長島」という地名は「七つの洲からなっている」ことから「七島」と呼ばれ、それが「長島」に転訛したとされるが、単純に「長い島」でできていることに由来するという説もある。「長島町」は2004(平成16)年に「桑名市」に合併されて現在は「桑名市長島町」となっている。

史上最悪の伊勢湾台風

 東海道の陸路を断念させたのは濃尾平野を流れる「木曽三川」と呼ばれる「木曽川」「揖斐川」「長良川」が形成した広大な低湿地帯だったが、名古屋市も含めてそこを襲った象徴的な台風が「伊勢湾台風」である。

 1959(昭和34)年9月26日、潮岬に上陸した台風15号は、紀伊半島から東海地方を中心に全国的に多大な被害を及ぼした。伊勢湾沿岸の愛知・三重両県での被害が特に甚大であったために「伊勢湾台風」と呼ばれている。犠牲者は5098人(死者4697人、行方不明者401)、負傷者3万8921人というから、けた違いの大災害であった。明治以降では最悪の惨事を引き起こした台風となった。

伊勢湾台風では、名古屋市内に大量の貯木が流入し、家屋の被害を大きくした。右下は長良川の決壊で鉄路(関西本線)も水没し、交通網が遮断された=1959年9月27日撮影

 最大の原因は強風による吹き寄せと低気圧による吸い上げによる「高潮」であった。名古屋市の南区には4㍍の高潮が押し寄せ、市内の3分の1が水没したという。死者は名古屋市内だけでも1909人に及んだ。そして海抜ゼロメートル地帯の諸都市はほぼ完全に水没した。旧「長島町」には「伊勢湾台風記念館」があるが、そこで町域全部が7㍍の水に水没し、水が完全に引くには半年かかったという話を聞き、そのすさまじさを目の当たりにした思いだった。

 被害を大きくした原因はもう一つある。それは名古屋港の貯木場から、直径1㍍、長さ10㍍、重量7~8㌧に及ぶラワン材が高潮に乗って名古屋市内の家々を襲ったことである。これでは当時の木造家屋はひとたまりもない。そして、さらに被害を深刻化させたのは、当時の汲み取り式便所の汚水がまん延したことで、感染症を引き起こしたことである。名古屋市では空から薬剤を散布したというが、新型コロナウイルスの感染拡大が社会問題化している現在、災害時の対策をどうするかが大きな課題になっている。

その時を超えて

 伊勢湾台風は私の故郷、長野県松本市も襲った。自宅の近くの大手橋という橋が流され、その後、木造の仮橋が架けられていたのだが、翌60(昭和35)年12月26日午前11時頃、路線バスが仮橋から転落し死者4人、負傷者41人という事故が発生した。雪でスリップしてそのまま7㍍下の河原に転落したのだが、仮橋に手すりはついていなかった。

 当時、私は中学3年生で、学校の前を多くの救急車が走り抜ける音が今も耳に残っている。台風は時を超えて被害を及ぼすこともあるという事例である。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載