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2020.09.27

暴れ川に挑んだ佐々成政と加藤清正 緒方英樹 連載9

本能寺の変が、豊臣秀吉と佐々成政の明暗を分けた!

 今から440年ほど以前、越中(富山県)の暴れ川・常願寺川(じょうがんじがわ)の治水に初めて取り組んだ戦国武将がいました。悲運の武将とも言われる佐々成政(さっさなりまさ)です。

 成政は、1536(天文5)年1月、豊臣秀吉と同年同月、同じ尾張に生まれたと言われ、同じ主君・織田信長に仕えました。貧しい百姓の出ながら、機知に富んだ世渡りで頭角を現していった秀吉に対し、名門・尾張比良城に生まれた成政は、信長の親衛隊筆頭に選ばれるほどの豪傑でしたが、二人のたどった生涯は対照的に明と暗が分かれていきます。

 命運を分けたのは、本能寺の変でした。明智光秀の謀反は、ポスト信長をめぐる柴田勝家と羽柴秀吉のバトルに火をつけます。どちらにつくか苦渋の選択を迫られた成政でしたが、結局、荷担した勝家は敗れ、秀吉の軍門に服すこととなりました。

佐々成政像(富山市郷土博物館所蔵)


越中の川千本

 「越中の川千本」。かつて人は富山県のことをそう称していました。

 富山県は、北アルプスの立山連峰などの山岳地帯からゼロメートルの平坦地まで標高差が大きい地勢で、その急勾配のため、北から黒部川、常願寺川、神通川、庄川など暴れ川が多く、古来より洪水など増水時の水害に悩まされてきました。山から落ちてくる川は扇状地の田畑を潤す一方で、土石流を伴う幾たびもの氾濫が、この地域の人々に水害のトラウマを植えつけてきたのです。
 標高3000㍍級の山々と水深1000㍍の海による「高低差4000㍍」の地形は、実にダイナミックな美観を有し、北アルプスの山々から注ぐ豊穣の海の産物は多種多様な幸をもたらしています。

 一方、古来より地震や大雨により出水した常願寺川などの河川は、沿村に甚大な被害をもたらしてきました。県下最大の河川である神通川でも、藩政時代に46回、明治時代以降も50回以上の大洪水に見舞われています。今も県全体の約4割の人口が平野部に集中していますが、そうした流域に住んできた人々にとっては、自然の恩恵と脅威を清濁併せのむ覚悟の中で生きてきた歴史を背負っていると言えるでしょう。

 そのなかでも「暴れ川」の異名をとる常願寺川について、「これは川ではない、滝だ」というデ・レイケの有名な言葉がありますが、史料として残されておらず、デ・レイケの視察に同行した富山県土木技師・高田雪太郎が記した「川ト言ハンヨリハ寧口瀑ト称スルヲ允当トスベシ」が出所とも言われています。いずれにせよ、源流の山間部から河口までは約3000㍍もの標高差があるのに、その長さは56㌔と短い世界一の急流河川です。大洪水が流域に与える被害は甚だしく、「川の氾濫がないことを常に願う」思いを込めて、地域民が名づけたとも伝えられています。

日本の川は世界的に見ても短く、勾配が急だ。国土交通省資料より作成


常願寺川にはじめて築いた大堤防「佐々提」

 1580(天正8)年、常願寺川が富山城下一帯を蹂躙(じゅうりん)した翌年、一人の戦国武将がこの地に入りました。織田信長が越中の守護として送り込んだ佐々成政でした。

 『常願寺川沿革誌』(建設省北陸地方建設局)から当時の常願寺川を見てみると、度々の洪水で家屋漂流し、人馬も溺死したとあります。大水が出ると馬瀬口のあたりで土手が切れ、 富山城下を水びたしにすることが多かったようです。そこで成政は、堤が切れた中流の馬瀬口に出かけ、城下を守るために石堤を築きます。これが「佐々堤」です。

成政が築いたとされる「佐々堤」=富山市馬瀬口で


 成政は、みずから陣頭に立って、三面玉石張りの大堤防を築きました。三面玉石張りとは、堤防の天端、両のり面すべてを石で被った越中初の川筋堤防のことで、この霞堤(不連続堤防)は、川下を守るためにいくつも築かれたということです。

 この時の様子が、『明治以前土木史』(土木学会)に記されています。

 「当時成政は、日々馬を此地に進めて工事を指揮し、巨石に自己の氏名を刻みて之を河底に沈め、其の上に二五間の堅固なる石堤を築造せり」。

 幅45㍍の大堤防が想像できます。これが、常願寺川に堤防が築かれた始まりでした。この「佐々提」は、度重なる洪水で大部分が土砂等で埋まってしまいましたが、現在、富山市(旧大山町)馬瀬口の常西用水の川底に、石積み堤防天端部の一部が見られます。さらに成政は、洪水で堤防を破ってできた支川に「鼬(いたち)川」と名づけ、両側に堤防を築き、流域原野を開墾し、鼬川の灌漑(かんがい)によって穀物を育てました。今も富山市街をゆったりと流れる鼬川。小説『螢川』(宮本輝)や映画の舞台となりました。

熊本城近くにある清正公像。治山治水や築城を指揮した姿を表しているという

土木の天才・清正公さん

 戦国武将・加藤清正と聞くと、槍使いの猛将といったイメージが浮かぶ人も多いでしょう。
 しかし、ここで紹介する清正は、関ヶ原の戦いの後、肥後(熊本)の暴れ川を次々と治めて、地元の人たちから清正公(せいしょこ)さんと慕われる土木の天才についてです。

 1562(永禄5)年、清正は、豊臣秀吉と同じ尾張国愛智郡中村、現在の名古屋市中村区に生まれ、12才になると母方の親戚にあたる秀吉の小姓となり、その恩義は生涯変わらぬ忠節となって、秀吉に仕えたことで有名です。戦国の合戦で多くの手柄を立てた功から武断派として知られる清正ですが、実は、土木技術者として天才的な手腕を発揮するのは、秀吉亡き後、関ヶ原の合戦以降のことです。つまり、戦国乱世が落ち着き、各地へ散った戦国の武将たちは、築城などで磨いた土木力を治水など大土木工事に注ぎ込むようになったと言えるでしょう。

 戦国時代も末期の1587(天正15)年、肥後(熊本)国主となっていた先述の佐々成政は、肥後北東部の国衆が中心になって起こした一国一揆の責任を問われ、秀吉の命で切腹させられてしまいます。

阿蘇カルデラから有明海まで流れる白川。流域は2市3町2村に及ぶ=熊本県菊陽町で


 そして、翌年、成政の後を受けて隈本城に入ったのが26歳の清正でした。

 しかし、肥後の領地は乱世で荒れていました。菊池川、白川、緑川、球磨川という4大河川が洪水を起こし、人家や田畑に甚大な被害を与えていたのです。特に、阿蘇の火山灰を運んでくる白川、その暴れように清正は息をのんだことでしょう。民心を立て直し、生産力のある安定したまちづくりのため、清正は治水工事と新田開発をセットで行うことにしました。治水工事や灌漑事業などで肥後の復興を目指したのです。

 しかし、工事に取りかかると間もなく、秀吉から朝鮮出兵を命じられます。そして関ヶ原の戦いや名護屋城普請を経て、清正が本格的な工事に入ったのは10年以上後、肥後国すべての領主になってからのことでした。それから実質10年程度でほとんどの治水利水工事を成し遂げたわけですが、これは現在の土木事業から見ても驚異的な出来事です。

土木の天才が残した「技のデパート」

 清正が、実質わずか10年程度で、熊本城を築きながら、多くの暴れ川から城下まちを守る治水工事を行い、荒れた土地を肥沃な田畑に改造するという数々の土木事業を成しとげた秘密はどこにあるのでしょうか。

 一つには、相当な軍事力を戦ではなく土木工事に投入できたこと。そしてもう一つは、清正が人の意見を聞く柔軟な耳を持っていたことではないでしょうか。「人は城」と言って、領民に耳を傾けた武田信玄をほうふつとさせます。

 清正は、地元の古老や川守りから肥後の持つ風土の特徴や過去の災害の様子、伝統工法など伝授されたことでしょう。普請奉行の飯田覚兵衛をはじめ、普請にすぐれた部下たちは、兵法を応用した知恵やアイデアを出し合い、清正はそれらを集約してオリジナリティに富んだ技術を生み出していったのだろうと想像します。

土木の名人たち

 そして、清正は、土木の専門家を各分野で大いに活用します。たとえば、近江(滋賀県)から連れてきた石積み名人・穴太衆(あのうしゅう)には、城づくりだけでなく、石積みの川堤工事で存分の仕事を任せました。

 また、飯田覚兵衛に所属していた川潜りの名手三孫(孫六、孫七、孫八兄弟)は、川普請前の調査で活躍します。三孫たちは、川の表面にもみ殻や瓢箪(ひょうたん)を流したり、水に潜ったりして、岩や石で起こる渦や激しい流れを調べました。そうして川の流れや特徴をよく知ったうえで洪水を防ぐ知恵を練る姿勢は、武田信玄にも通じます。佐々成政に仕えていた治水の名人・大木兼能(かねよし)も三千石で召し抱えられました。

独特な工法が用いられている「鼻ぐり」。岩盤を掘削する際に壁を残し、その壁に「水流穴」をくり抜いている。右上は「鼻ぐり」の原寸模型。用水路に土砂がたまらないよう、「鼻ぐり」状にすることで水流に変化を持たせて土砂がたまらないようにした=熊本県菊陽町で

 その過程で河川に施された数々の仕掛けは、まさに技のデパートと言えます。緑川に施された「くつわ塘(ども)」「たんたん落とし」といった水勢を調節して洪水を防いだり、被害を抑える技、白川の「鼻ぐり井出」などほんの一例です。ちなみに、「鼻ぐり」とは、水路の中にトンネルが掘られ、土砂のハケをよくする天才技のシステムです。

 八代市渡町の球磨川に築いた「八の字堰(ぜき)」は、川の中央から下流へ八の字形に自然石を組む治水と水利を兼ねた堰でしたが、昭和の河川事業で姿を消してしまいます。そして昨年、50年ぶりに親水空間として再生しました。さらに、気ままな暴れ馬のような白川を見事に手なずけて熊本城の外堀とし、坪井川の流れを内堀とした離れ業は、日本初の分流工事とも言われています。

 清正の堤防は、その後背地に「くつわ塘」のような遊水池をできる限り設けて洪水の軽減を図っています。それら堰(せき)は、利水、取水の位置を考慮しつつ、堤防の起首を低くして水が自然に溢れる工夫が見られるのです。

 これら、清正の土木工事の特徴は、その規模の大きさと堅固無比な施工にあると言われますが、その要所要所に築かれた多彩な技が、合理的に川をなだめていきました。

 土木工事には、大層な人手も要したことでしょう。清正は、男女の別なく米や給金を支払い、働く時間も守られたので、農民たちは進んで工事に参加したといいます。今でも絶大な人気の秘密がうかがえます。

 しかし、地球環境の変化に伴う自然の猛威は、いきなり襲いかかってきます。7月4日、熊本では停滞する梅雨前線による記録的大雨で、球磨川の7カ所で堤防が決壊、上流から下流までほぼ全域にあたり甚大な被害を及ぼしました。さらに広い範囲で土砂災害や低い土地の浸水、川の氾濫に警戒が呼びかけられています。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日掲載