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2020.09.27

土佐の水防に取り組んだ山内一豊と野中兼山 緒方英樹 連載10

 カツオの一本釣りで有名な高知県。太平洋に面した全長約713㌔にも及ぶ海岸線から海の国と思われがちですが、実は東西に連なる山地率89%の山国で、東から奈半利(なはり)川、物部(ものべ)川、仁淀川、四万十川など四国山地に源を発する大河が東から南へ多く流れています。それら豊かな清流の恵みは、時として水害などの大きな災害をもたらしていました。

 そうした自然災害に備える治水の歴史をたどると、戦国時代の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)から子の盛親に至る長宗我部時代25年間、そして関ヶ原の戦い後に入国した山内一豊の城下町づくり、さらに江戸時代初期に活躍した天才的土木家・野中兼山にたどりつきます。

桂浜(手前)と浦戸湾。山内一豊は堀や浦戸湾からの水路を整備し、高知城下は水運が発達した

城下町を洪水から守る、土佐藩による水防

 関ヶ原の戦い後、山内一豊は1601(慶長6)年、長宗我部盛親の居城だった浦戸城に入城します。そして、廃城となっていた大高坂山城(おおたかさやまじょう)跡に統治の中心拠点として高知城を築城、城を河中山城(こうちやまじょう)、城下町の名を河中(こうち)と命名します。現在の県名である「高知」の由来です。

 河中山城は、高知平野の中心に位置していましたが、北に鏡川、南に江ノ口川という二つの川に挟まれた場所にありました。そのため土佐藩は、高知城下を度重なる洪水から守るため、堀や堤防の整備と水防の充実に腐心します。その城下町整備は、二代藩主・忠義の時代まで続きました。

 一豊は、洪水対策として、長宗我部盛親と同様に城下町の周辺に高い堤防を築き、渕(水深が深い場所)を埋めていきます。一豊はさらに、国分川や舟入川など河川に霞堤や越流堤をつくって洪水を調節するなど城下町の水害対策を行っていたことが、四国地方の歴史が書かれた『南路志』(1813年)からうかがうことができます。

高知城がある高知公園内にある山内一豊像(左、高知県観光コンベンション協会提供)と、高知市上町2にある水丁場の区画を示す石の標柱。「従是東ノ六丁場」と刻まれている

 土佐藩の水防対策で、今に教訓を残すものとして1672(寛文12)年に始まったという「水丁場(みずちょうば)」があります。築いた堤防には、それぞれ受け持ち区域(水丁場)を定め水防体制を取っていたというのです。持ち場を示す標柱を建て、増水状態を確認しながら、その程度に応じて出動の人数を決めて、出水時には武士、町人らが協力して法螺(ほら)貝を吹き鳴らしながら洪水の侵入を防いだということです。この水防の教訓は、現在の消防団など自治的水防組織の水防活動に活かされています。

 それぞれ受け持ちの区域である水丁場の境界を示す標柱が鏡川に残されています。高知市鷹匠町にある標柱の看板には、「水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていた」とあります。

大いなる改革、並はずれた偉業

 「江戸期、兼山以前の土佐は、ひとびとが自然に耕し、自然に漁りする山河であるにすぎなかった。兼山は政治の力でこれを改変した。たとえば大いに農業土木をおこして、新田三千町歩を得た」と司馬遼太郎は、『街道をゆく』27巻「因幡・伯耆のみち、檮原街道」(朝日新聞出版社刊)で、野中兼山のことを高く評価しています。

 兼山(1615~63年)は、江戸時代初期の土佐藩家老です。兼山が施政30年の間にした用水工事は、山田堰、野市堰(物部川)、下津野堰、井口堰など8カ所(吉野川)、弘岡堰、新川堰、鎌田堰、八田堰(仁淀川)、麻生堰(後川)など、物部川流域で7カ所、仁淀川流域で4カ所、吉野川流域で7カ所、四万十川流域で3カ所、松田川流域で1カ所が数えられます。浦戸湾口防波堤など堤防・防波堤が28カ所 、港湾の改修では津呂港(別称・室戸港)、室津港、手結港、浦戸港(現在の高知港)、柏島港など港を深く削り、大船が出入り出来るようにしました 。

 これは、尋常ではない偉業です。

 土佐の高知に、山内一豊、坂本龍馬、板垣退助など傑物はあまたいますが、政治家としてだけでなく土木家としても傑出した野中兼山がいなかったら、今ある土佐の景色はずいぶん違ったものになっていたのかもしれません。

 兼山は、12歳で土佐藩家老野中玄蕃(げんば)の養子となり、23歳で家老を継ぎ、2代目藩主、山内忠義から藩の改革を命じられます。「大いに改革せよ」。土佐藩主の藩命が若き執政者・兼山に下ったのです。

 米が経済の基本である時代のこと。年貢米徴収が藩の浮沈を左右します。そして、当時の土佐は、荒れ地が広がり、米不足が藩政を圧迫していました。莫大な借財にも追われていたのです。社会的ニーズにどう応えるか。若き家老は、その解を出すためのキーは「水」にありと確信します。地域開発のための治水や新田開発、港づくりなど土木技術が不可欠でした。

土佐市新居の「上ノ村遺跡」では2008年に発掘調査が行われ、野中兼山が手掛けたとみられる石積みの河川護岸遺構が見つかった(写真)。石積みで造った河川の護岸遺構の発見は全国で2例目だった。左下は本山町本山の帰全山公園にある野中兼山像

水から始めた兼山の土木

 兼山は、まず川から手を入れました。堤防で整え、流れも変えます。運河や疏水を通し、川に堰をつくって、荒野を開拓した新田に水を引きます。水深のある浦戸湾(現在の高知港)をつくり、港を深く堀込み大船の出入りを可能にしたのです。辺境と言われていた土佐が、兼山の非凡な筆で実り豊かな色を帯びていったのです。

 物部川流域の堰づくりでは、11万5000本の松材と3690坪の石材が使われたといいます。特に、長さ327㍍にもおよぶ山田堰工事には約4万数千本もの松材を使っています。何のための松か。物部川の川床は深い。田畑に水を引くためには水位を上げる必要があったのです。そのため考案したのが「四ツ枠(よつわく)工法」でした。松でつくった枠に石を詰めた構造物をいくつも置いて堰としました。使った松は約4万本以上とも言われています。

 山田堰はその後、1982(昭和57)年に役目を終えて上流に新しい堰が設けられました。取水口の一部が復元された「山田堰記念公園」は、県指定史跡として親しまれています。山田堰の歴史やしくみ、その配水のようすを体感できます。兼山の業績はいまも県民の暮らしをささえ、あるいは、多くの遺構が史跡となっているのです。

 物部川からの土砂を防ぐ防砂堤を設けた手結(てい)港は、兼山の考案した日本最古の堀込み式港で、海岸に石垣を築いた岸壁が内陸に掘り込んだ形からそう呼ばれます。案内看板に「南を半島によって囲まれ港口を西に向けて夏の暴浪を防ぐことができる土佐藩屈指の良港」とあります。防砂と防波を考えた土木技術です。この港は、1991(平成3)年、兼山が造った当時の原型に戻す修復工事が行われました。

 ところが、ここまでやってのけた兼山の才を幕府は怖れたか。あるいは出過ぎた杭(くい)として内部から弾劾されたのか。兼山に謀反の疑いありと指弾され、山内家から罷免されます。クーデターか、陰謀か。突然の失脚でした。兼山は、幽閉地で3カ月後に48歳で亡くなりました。

 兼山死した後も、不幸は野中家遺族にも及びました。一家取り潰し、領地没収、子女8人幽閉、長女・長男は病死、次男は狂死、娘3人と母は、「門外一歩」も許されず40年間、男系の血が途絶えるまでを生きぬきました。遺族の女子が幽閉から開放されたのは40年後。その中の四女は小説「婉という名の女」(大原富枝)のモデルになっています。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日掲載