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2020.10.24

侍大将から治水家へ 成富兵庫茂安 緒方英樹 連載11

三大暴れ川といえば……

 利根川は板東太郎、筑後川は筑紫次郎、吉野川は四国三郎と呼ばれたように、これら三大暴れ川の氾濫は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の姿にたとえられてきました。筑後川は熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れ九州一長く、熊本県阿蘇の源流から筑紫平野を経て有明海に注ぐ流域面積は2,860平方㌔㍍にもなります。そして、その大河が暴れ出すと多くの支流がヤマタノオロチのようにうねり、のたうち回り、流域は海と化してきました。

 筑後川は記録に残るものとして、806(大同元)年の太宰府管内での水害と干ばつ以来、1573(天正元)年から1889(明治22)年に至る316年の間に183回の洪水記録があります(国土交通省九州地方整備局筑後川河川事務所調べ)。特に、1953(昭和28)年の西日本水害では、梅雨前線を原因とする集中豪雨により、流域内での被災者数が約54万人に及ぶ甚大な被害を与えました。

今年7月の九州豪雨で冠水した山ノ井川周辺の農地や宅地。筑後川(右)との合流地点(中央右)にある水門が閉鎖されるなどして内水氾濫が起きた=福岡県久留米市で2020年7月8日

 そして今年、2020年7月、梅雨前線による九州豪雨では局地的に猛烈な雨に見舞われ、福岡、大分での護岸や堤防の損壊など中小河川への被害は著しく、大分県日田市では筑後川上中流部で氾濫するなど未曽有の大水害を及ぼしました。

郷里・佐賀に帰った侍大将が選んだ道とは

 このヤマタノオロチに立ち向かった男の名は、成富(なりどみ)兵庫茂安です。戦国時代から江戸時代にかけて郷里・佐賀の治水事業に尽くしました。佐賀には兵庫町、北茂安町などに、この武将にちなんだ地名や、その功績をたたえる兵庫祭り、生誕碑などが残っています。

佐賀市大和町にある「さが水ものがたり館」には成富兵庫茂安の生涯を紹介するコーナーがある


 今から約400年前、茂安は堤防、井樋(いび)、用水路、ため池など100数カ所の事業に携わり、佐賀の農業用水や飲用水を導くための利水開発や洪水防止の事業を進め、治水の神様とまで呼ばれているのです。

加藤清正との運命的出会い

 茂安は1560(永禄3)年、肥前(佐賀)の鍋島町に生まれました。時は、織田信長が桶狭間で今川義元を破った戦国の世でした。佐賀藩主・鍋島氏に仕えて腕を磨いた茂安は、天草一揆の平定、秀吉の朝鮮出兵などで目ざましい活躍を見せます。そのずば抜けた強さには、藤堂高虎、浅野長政、福島正則ら猛者も認めるほどで、戦国武将としては知る人ぞ知る「時の人」でもありました。その戦場で茂安は運命的な出会いに恵まれます。土木の天才・加藤清正です。

 一介の侍大将・二千石の茂安と、一国の大名・清正という大きな身分の隔たりはありましたが、清正は茂安の戦場における働きぶりを認めていました。茂安は、名古屋城築城などで陣頭指揮を執る清正を助けながら土木技術を学んだと思われます。その茂安を清正は一万石という破格の待遇でスカウトします。ところが、茂安は固辞しました。

 「たとえ肥後一石を賜るとも応じがたく候」。断る方もそうなら、郷土への忠義心にあつい茂安を惚れ直した清正も天晴(あっぱ)れでした。

 戦国武将として幾多の功績をあげた茂安でしたが、50歳にして侍を捨てます。大坂夏の陣を契機に戦国時代の終わりを読んだであろうことが、佐賀藩主に領内整備の重要性を進言したことからうかがえます。茂安は、戦乱や災害で荒れた肥前の領地を立て直す民政に身を投じていったのです。

 地元に帰った茂安は、まず民衆を洪水で苦しめていた暴れ川・筑後川の治水事業に挑戦します。治水事業とは、飲み水や田畑に使う水を川から取り入れ、また、洪水などから地域住民の暮らしを守ることです。

 大蛇が、武士を捨てた治水家・茂安の前に立ちはだかりました。並の堤防では呑(の)み込まれてしまうでしょう。茂安の土木技術と農民たちの力を結集し、12年がかりで築いたのが千栗の堤防です。

 その筑後川治水において、茂安が施した土木事業とは、筑後川右岸に大規模な連続堤防を築くことでした。その規模は、堤敷幅30間(約54㍍)、堤防高4間(約7.2㍍)、天端幅2間(約3.6㍍)、千栗(ちくり)から坂口までの延長は3里(約12㌔)に及びました。その堤防は、内と外の二重構造として、その間に遊水池を設けます。さらに、堤防の中心部に硬い粘土を突き固めた壁(ハガネ)を仕込み、その土居(土を盛った堤)の川表に杉、川裏に竹を植えて地盤を固め洪水対策機能を強化しました。

 工事は、土砂運搬など農民総出による大がかりな人海戦術でした。茂安は、農作業の都合を考慮してあえて急がなかったとも言われ、かつての侍大将は雨の日も農民たちと作業小屋に泊まり込み、皆に湯茶を配って回ったという逸話も残っています。千栗堤防と呼ばれるその名残は、現在も北茂安町の千栗公園に200㍍ほど保存されています。

 かつて関ヶ原の戦いなどで武功を知られた侍大将は、まともな堤防もない無防備地帯にふらりと帰ってきて人々を洪水から救ったのです。水をめぐる争いには、使う時間や順序など管理して村と村の連携を図ったといいます。

 戦国時代から江戸時代にかけて活躍したこの人の肖像画は、どこにも見あたりません。よって、顔は知られていないのですが、佐賀県で知らぬ人はいない郷土の偉人です。

 現在、千栗土居は、筑後川の堤防整備により、千栗土居公園として保存されています。

石井樋の全景。写真中央が大井手堰で川沿いに延びている堤防が天狗の鼻、その右隣の堤防が象の鼻(さが水ものがたり館提供)

象の鼻・天狗の鼻

 「神様がつくったものに手を加えると罰があたる」。

 佐賀平野の農民に伝わる言い伝えです。治水の神様は、洪水から人々の生活を守るだけでなく、川から飲料水や農業のための水を引く灌漑事業も多く行いました。

 神様のつくった「石井樋(いしいび)」とは、石で造られた井樋(取水施設)を意味しています。茂安は、佐賀城下を洪水から守り、さらに佐賀平野を流れる嘉瀬(かせ)川から多布施(たぶせ)川に生活用水や農業用水を引き入れるため、多布施川入口に様々な工夫を凝らして灌漑事業を行ったと言われています。その遺構と資料を頼りに、2005(平成17)年末、佐賀市大和町に石井樋が丹念に復元され、まるで神業のような茂安の水利技術が蘇ったのです。

石井樋周辺は現在、公園として整備されている(さが水ものがたり館提供)


 そこに妙な石積みがあります。その形から象の鼻・天狗の鼻と呼ばれます。この構造物こそ、嘉瀬川の上流から運ばれてきた砂混じり水を逆流させて弱め、かつ浄化する水利システムです。嘉瀬川の流れを大井手堰にぶつけて逆流させ、二つの鼻に導かれた水はゆるやかに濾過されながら多布施川に流れ込む。治水機能を備えた浄化装置と言えるでしょう。

 約400年前、ここから引かれた水が、魔法のように佐賀平野を穀倉地帯に変えていったことが想像できます。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日掲載