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2021.04.11

「高知」の名に込められた水防への思い 谷川彰英 連載10

「高知」の意味

 「土佐の高知の~」と謡われた「よさこい祭り」もコロナ禍で中止になったが、地元の有志が前触れもなく「よさこい」を披露したというニュースがテレビに流れた。「高知」と言えば「高い知」をイメージする地名だが、実はその裏には水害の歴史が隠されている。

 土佐国を治めていた戦国大名、長曾我部元親は、現在、高知城がある山上に築城しようとしたが、重なる洪水でわずか3年足らずでこの地への築城を諦めた。その後、関ケ原の戦いで功績を挙げた山内一豊が初代土佐藩主として入国することになるが、一豊は当初、土佐湾に面した浦戸城に居城した。しかし、土地が狭く城下町をつくるのが難しいと考え、高知平野の中央に位置する大高坂山に築城することを決めた。

高知城。現在、天守では2021年1月下旬までの予定で高欄の改修工事が行われている

 一豊は10年の歳月をかけて築城。城下町を「河中(こうち)」と命名し、城の名前も「河中山城」とした。「河中」としたのは、城を含めた城下が北に流れる江ノ口川、南に流れる鏡川に挟まれ、その「中」に位置していたからである。つまり、この城下一帯は二つの河川によって挟まれた洪水常習地帯だったということになる。

高知市の中心部を流れる鏡川の河口付近。現在でも大雨などで浸水被害がたびたび引き起こされている

 そこで「河中」という名前はいかにも水害を招きやすいということで、二代藩主・忠義の時代に「高智」と表記を変えた。その知恵を出したのは八十八カ所巡りで有名な五台山竹林寺の高僧・空鏡であったと言われる。そしてその「高智」が後に「高知」となり、そこから現在の「高知県」の名前が生まれたのである。

 つまり、「高知」という地名そのものに、水害を防ごうという人々の願いが込められていたのである。

1976年9月の台風17号では、高知市内各地で浸水被害が起きた(同市河ノ瀬町で)

 江戸時代から現代に至るまで「高知」の地は洪水に悩まされ続けてきたが、戦後の1976(昭和51)年9月の台風17号の豪雨では、鏡川の氾濫により市内の浸水家屋は4万2500戸に及んだという。また1998(平成10)年9月の秋雨前線による豪雨での氾濫では1万5000戸の家屋が浸水の被害を受けている。

全国にある「川内町」

「高知」の由来となった「河中」は本来、「河内」であろう。今は大阪府の一部になっているが、こちらは「かわち」と読む。言うまでもなく、複数の河川に囲まれた低湿地帯のことを指し、一般的には「川内」という地名になっており、この町名は全国に分布している。

 その中には自治体名となったものもあり、次の三つが存在していた。青森県下北郡川内町(かわうちまち)=現・むつ市▽愛媛県温泉郡川内町(かわうちちょう)=現・東温市▽鹿児島県薩摩郡川内町(せんだいちょう)=現・薩摩川内市=である。

 鹿児島県川内町については後述するが、これらの「川内町」は1本の河川の流域に属し、その「内」にあることから、昔からたびたび洪水に悩まされてきた。例えば、青森県川内町の場合、1966年(昭和41)4月の集中豪雨で568戸が浸水被害を受けている。

 ただし、愛媛県の川内町のように、町制を敷く際に合併する「川上村」「三内(みうち)村」から1字ずつとって「川内町」とした事情もある。しかし、この地を流れる「重信(しげのぶ)川」も暴れ川で、江戸時代時の藩主が家臣・足立重信に洪水対策の工事を命じ、無事なし遂げたが故にこの名がついたという。

「川内川」の氾濫

 鹿児島県川内町は川内市となり、平成大合併によって今は「薩摩川内市」になっている。川内町が成立したのは1929(昭和4)年のことだったが、町名の由来は、この地を流れる「川内川(せんだい)川」によるものと思われる。だが、なぜかここだけは「川内」を「せんだい」と音で読んでいる。

 この川内川も暴れ川として有名で、川内町成立以前にこの地には「水引村」という村があったことが知られている。「水引村」と聞けば、現代的には水害をイメージしてしまうが、昔は田に水を引くことができる豊かな村であったのだろう。

2006年7月の九州豪雨で川内川があふれ孤立した集落(鹿児島県湧水町で) 

 川内川は九州では筑後川に次ぐ第2の河川で、古来多くの水害をもたらしてきた。近年では「平成18年7月豪雨」で多くの家屋が浸水被害にあった。2006(平成18)年7月15から24日にかけて日本列島に梅雨前線が停滞し、長野県、島根県、九州南部地方に多大な被害をもたらした。川内川流域では、床上浸水が1812棟、床下浸水492棟の被害を生んだ。

 今年9月6日から7日にかけて沖縄と九州地方を台風10号が襲い、気象庁の予報ではこの川内川は氾濫危険河川の一つに数えられていたが、幸いにして事なきを得た。

 水と人々との交渉(つきあい)はこれからも続くだけに、古来の地名に隠された意味に思いを巡らし、防災に役立てたいものである。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載