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2021.04.11

浸水被害が心配な「牟田」 谷川彰英 連載13

九州に多い地名

 昔人気を博した俳優に牟田悌三(1928~2009)がいた。ご本人は東京都出身とのことだが、そのルーツは九州ではないかと勝手に推測している。それほど、「牟田」という地名は九州に深い関わりを持っている。いや牟田という地名は九州独特であり、かつ九州を代表する地名であると言ってよい。

 ある調査では、九州全土の5万分の1の地形図上では、ムタ地名は126個あり、内訳は牟田が92、無田が33、牟多が1であったという。ムタはヌタと同じ「ぬかるみの田」を意味する地名で、東日本では「沼田」などと書かれたりする。ノダ(野田)なども同類の地名である。

2015年7月に世界文化遺産に登録された福岡県大牟田市の三川坑跡。右側は専用鉄道敷跡

大牟田市の浸水

 牟田地名は九州全土に分布しているが、とりわけ有明海沿岸に集中している。一番知られているのは福岡県南部に位置する大牟田市だ。かつては三井三池炭鉱で栄えた町だが、この地が炭鉱の町として栄えたことと牟田地名は大いに関係している。この炭鉱はムタと呼ばれる泥炭地に形成されたのである。

 大牟田市の前身の大牟田町は、1989(明治22)年の町村制の施行によって「大牟田」「下里(さがり)」「稲荷(とうか)」「横須」の4村が合併して成立している。やはり「大きなムタ」だったのである。

今年7月の集中豪雨で避難所の小学校が孤立し、ボートで救出される児童ら=福岡県大牟田市で

 市内には一級河川は流れていないので、河川の直接的な氾濫というよりも、いわゆる「内水氾濫」が目立っている。排水路や支流の水がはけずあふれる現象である。

 今年7月に九州地方を襲った集中豪雨によって大牟田市は甚大な被害を受けた。7月6、7日と続いた豪雨によって「半壊」と認定された家屋は1000軒を超えたという。

奇跡の脱出

 このように牟田地名のつくエリアは要注意だが、世の中、そう暗い話ばかりではない。大牟田市の南に熊本県上天草市がある。上天草市は平成の大合併によってできた都市だが、その一角にある旧姫戸町にも「牟田」地区がある。この地区にあった姫戸小学校牟田分校で起こった奇跡が今に伝えられている。

1972年7月の集中豪雨で熊本県姫戸町ではがけ崩れや山津波が発生し、住宅や学校、工場などが押し流された。この豪雨による犠牲者は全体で112人にのぼった

 1972(昭和47)年7月6日、同分校を鉄砲水が襲った。時はちょうど楽しい給食の時間の12時20分ごろ。裏山から流れ落ちた水は校舎の周りにあふれ、床下からも水が噴出したという。危ないと判断した分校主任は全児童を安全な場所に移し、「勝手な行動を取らないよう」注意した上で避難を始めた。まず教員が濁流に飛び込み、児童がその後に続いた。泳げる子もいれば流されそうになる子もいる。上級生が下級生の手を引きながらやっと避難し終わったその直後、鉄砲水と巨岩で校舎は押し流されてしまった。

 避難のタイミングがあと30秒遅れていたら、児童64名と教諭6名の命は助からなかったといわれている。「間一髪」という言葉があるが、まさに、教師の「間一髪」の判断で多くの若い命が救われたことになる。

教師の的確な判断が児童たちの命を救った!

 思い出すのは10年前の東日本大震災の津波によって74人の犠牲者を出した宮城県石巻市の市立大川小学校の悲劇である。あの悲劇は教員集団が適切に判断して避難していたら、確実に防ぐことができた。津波から被害に遭うまでの50分間、教師たちは何をしていたのか厳しく問われている。

 世間的には大川小学校が注目を集めたが、むしろ注目すべきは好対照の牟田分校である。教師の適切な素早い決断力で多くの若い命が救われたことは、後世まで語り伝えてほしい話であろう。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載