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2021.05.12

世界に誇る防災遺産・立山砂防 緒方英樹 連載16

その後の常願寺川

 本連載第9回で、1580(天正8)年、越中(富山県)の常願寺(じょうがんじ)川の治水に初めて取り組んだ戦国武将、佐々成政(1536~1588 )を取り上げました。

 その後、名うての暴れ川と呼ばれた常願寺川はどのようになったのでしょうか。常願寺川と、その源にあって年間6000ミリに及ぶ降水量がある立山連峰は、かねてより密接に関わっていて、洪水や土石流を発生させてきました。

 自然の力が引き起こす災害のことを、自然災害と言いますが、その中でも、土石流、地すべり、がけくずれの三つを「土砂災害」と呼びます。土砂災害は、家や道路、田畑、人の命をも奪います。地震や台風、大雨の多い日本では、古来より毎年のようにこの土砂災害に悩まされてきました。富山では、佐々成政が治水をおこなってからもなお、多くの民衆を苦しめていたのです。「常願寺川を見ずして、日本の河川は語れない」とは、河川工学の第一人者で日本国際賞受賞の高橋裕氏の言葉です。

増水時には崩壊土砂を含み茶色く濁る常願寺川(立山カルデラ砂防博物館提供)

安政の大災害

 ペリーが、軍艦7隻を率いて江戸湾に進出した安政元(1854)年から連続して大きな地震が起きました。安政南海(1854年、M8.4)、安政江戸(1854年、M8.4)、安政東海(1855年、M8.4)、安政八戸沖(1856年、M7.7)などを総称して呼んでいる安政の大地震です。そして、安政5(1858)年、4月9日(旧暦2月26日)に越中・飛騨国境(現在の富山・岐阜県境)で飛越地震が起きました。推定M7.0~7.1とされますが、最近の調査ではM7.6という数字もあります。この地震は、安政東海地震によって跡津川断層を活動させた誘発地震とも言われます。

 富山藩士がその時の被害を記した『地水見聞録』などには、地面が階段状に隆起した箇所が見られ、富山城や城下では、城の下積みの石垣が崩れ、地割れや水の噴き出しなどが記録されています。しかし、飛越地震が富山にもたらした災禍は、まだ始まりに過ぎませんでした。その後、連続して起こった洪水との複合大災害によって、富山は、最大の危機を今日まではらませたのです。

安政5年の大災害で立山連峰から常願寺川扇状地に流れてきたと言われる大場の大転石。扇状地には40数個が分布している(立山カルデラ砂防博物館提供)

安政5年の大災害で立山連峰から常願寺川扇状地に流れてきたと言われる大場の大転石。扇状地には40数個が分布している(立山カルデラ砂防博物館提供)

立山カルデラ

 飛越地震により、立山山中では、とんでもないことが起きていました。立山連峰で鳶(とんび)山崩れが発生。常願寺川の源流にあたる大鳶山と小鳶山をはじめ各所が崩壊して、立山カルデラと呼ばれる火山爆発でできていた巨大なくぼ地に大量の土砂が流れ込んだのです。崩壊土砂は推定で4億1000万立方メートル(東京ドーム330杯分)、その土砂で常願寺川の源流が随所でせき止められました。

 そして、飛越地震から半月たった4月23日(旧暦3月10日)、さらに6月8日(旧暦4月26日)の2度にわたり大鳶崩れで川をせき止めていた土石が大雨や融雪水によって決壊し、泥流は川の両岸を削りながら押し出され、猛烈な土石流と濁流によって家屋や田地を土砂で埋め尽くしたのです。

 馬瀬口(富山県上新川郡大山町)に築かれた先述の佐々堤も川底に埋まりました。転石して川沿いの水田に流れ着いた巨石は、そのすさまじさを今に伝える名残です。常願寺川堤防の外(富山市大場)にある岩は立山の山中から40数キロも流されて、この地で止まったといいます。

世界最大の立山砂防への挑戦

常願寺川の水源調査を行うデ・レイケ(写真中央)=立山カルデラ砂防博物館提供

 1891(明治24)年7月、九州から山陰、北陸、信越、東北地方にかけて、豪雨災害が発生。常願寺川流域も安政の大水害につぐもので、堤防決壊は8カ所で計約6500メートル、田畑や家屋の流出は1527ヘクタールに達しました。

 当時、富山県の森山茂知事は、国に専門技師の派遣を背水の陣で要請し、オランダ人技師のデ・レイケが同年8月6日、富山に到着。常願寺川をはじめ、黒部川、片貝川、上市川、庄川、神通川の各水系と伏木港を視察調査して、常願寺川水害の原因は、立山カルデラの荒廃地にたまった大量土砂の流出にあることが確認されます。そして、デ・レイケの改修計画を富山県職員の高田雪太郎など日本人技師が支えました。

 しかし、治水の名人デ・レイケが「この崩壊地をくまなく鋼版で覆うしかない」と嘆いたほど、立山カルデラによる崩壊地はすさまじかったようです。そして1906(明治39)年、富山県は県営事業として砂防に着手します。 国庫補助を受けての20年計画でしたが、建設された砂防堰堤などの水利施設は、大正時代に入り崩壊土砂で次々と破壊されてしまいます。

豪雨による土石流で破壊された湯川第1号砂防堰堤(大正11年)=立山カルデラ砂防博物館提供

 そして、ついに政府が動きます。1923(大正12)年、関東大震災を契機に砂防法が改正されます。難工事であれば、一県でも国が工事を行えるようになりました。26(大正15)年に立山砂防は国直轄事業として引き継がれ、100年以上を経た現在も営々と砂防事業が実施されています。

 立山砂防工事事務所の初代所長として工事の先頭に立ったのは、内務省から派遣された砂防専門技師・赤木正雄です。赤木の立てた全体計画の要は、カルデラの出口に大堰堤を築くことでした。これが今もその役割を持つ白岩砂防堰堤です。

白岩砂防堰堤(立山カルデラ砂防博物館提供)

 立山カルデラ内には現在なお2億立方メートルの崩壊土砂が残っていると言われています。その土砂量は11トントラック約2900万台分、富山平野一帯を約2メートルの高さで覆うほどの量になります。さらに、火山灰が大量に堆積して生成された土砂地質のため、流出を完全に防ぐことは不可能に近いとされています。

 それでも、川の勾配をゆるやかにし、流出する土砂を止め、土砂の質を変える砂防ダム、土砂による下流部浸食を防ぐ流路工、山肌の崩壊進行を抑える山腹工など富山平野の暮らしを守っている砂防の仕事は、一般の目に見えにくいものですが、安全・安心を縁の下で支え続ける大切な役割を担っています。(土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)=毎月第1木曜日掲載