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2021.05.12

木曽三川に挑んだ薩摩義士の悲劇 緒方英樹 連載17

 岐阜県の海津(かいづ)市は県の最南端に位置して、東部を木曽・長良(ながら)川が東境を、揖斐(いび)川が中央部を流れています。かつては洪水多発地帯であったため、水害から集落や農地を守るため周囲に水除堤(みずよけづつみ)をめぐらせていました。輪中(わじゅう)堤です。

 国営木曽三川公園の木曽三川公園管理センター(海津市海津町油島)には、母屋・水屋・納屋で構成された「輪中の農家」が再現されています。治水事業の歴史や木曽三川について学ぶことができます。木曽三川とは、濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の三 つの川の総称です。小学校5年の社会科教科書では、「低い土地のくらし」について、海抜0メートルより低い土地が多い海津市を事例に、地域の人たちが水害をいかに防ぎ、豊かな水を利用するためにどんな工夫をしてきたか記述されています。
その海津市に、「宝暦治水之碑」があります。

油島千本松原の一角にある宝暦治水之碑。裏には治水工事犠牲者の名が刻まれている

歴史に残る大改修工事を行った宝暦治水

  宝暦治水とは、江戸中期、1754(宝暦4)年から行われた薩摩藩士らによる木曽三川の治水工事のことです。この薩摩藩による普請(道・橋・水路・堤防などの土木工事)は、治水史に残る大改修工事でした。その時の総奉行(責任者)が薩摩藩家老の平田靱負(ゆきえ)です。

 木曽三川は、北・中央アルプスの山々に源流を持ち、豊富な水が濃尾平野を肥沃に潤してきました。一方、豊富すぎる水は江戸以前から厄難の種でもあったのです。3本の大河は下流で網の目のように絡み合い、大雨が降るたびにあふれました。

 西に行くほど地盤が低くなる東高西低の濃尾平野は、豪雨が続くと三川がまとめてではなく、それぞれ時間差で攻撃してくるので地域に与える打撃は果てしがありません。そこで地域民は、土手で囲った高台に家をつくり、わずかな周辺地を細々と耕していました。そして、洪水から守るために、集落の周りに堤をめぐらせて外水を遮断したのが輪中、水と闘う水防共同体です。

木曽三川(手前から揖斐川、長良川、木曽川)

 しかし、徳川時代に入り事態はさらに悪化します。徳川家康は、尾張藩領を水害と西南諸大名から守るため尾張平野を取り囲むような大堤防「御囲堤(おかこいづつみ)」を築堤したのです。これによって尾張の国は水害から守られましたが、対岸の美濃側は御囲堤より三尺(約90センチ)以上堤防を低くする不文律が強制されました。

 村々は、幕府に訴状を提出して、下流域の川にある障害物(小規模な堤など)を取り払い、水の流れをよくしてもらいますが、次第に洪水の規模は広がり、洪水が終わっても長い間、水が引かなくなっていました。三川下流域の村々での新田開発も、増水時の遊水域を狭めていたのです。たまらず、輪中の民は幕府に悲鳴を訴え続けました。木曽三川を抜本的に変える大改造が必要だったのです。そして、宝暦3年の大洪水により濁流が輪中を呑みこみ、さすがに幕府も重い腰をあげます。絡み合う三つの大河を分離する計画の実行を決断します。

岐阜県養老町にある大巻薩摩工事役館跡に建つ平田靱負の銅像

青天の霹靂だった薩摩藩への幕命と平田靭負の苦悩

 しかし、誰がそんな大工事をやるのでしょうか。幕命は薩摩藩に下ります。薩摩にとって、それはまさに青天の霹靂(へきれき)でした。同年12月25日のことです。

 御手伝(おてつだい)普請(ぶしん)とは、工事を諸大名に担当させてその費用の一部を負担させるもので、大名の力を弱めるための幕府の政策です。幕命が下った年の瀬、薩摩藩主島津重年はじめ重臣たちは苦悩しました。幕府は、明けた正月から始めて11月までに完成せよと命じます。工事対象は、美濃、尾張、伊勢併せて193村にわたり、幕府の費用試算は10万両(約8億円)になりました。

 しかし、薩摩藩はすでに66万両の負債を抱えていました。参勤交代など幕府から度重なる負担を強いられていたからです。薩摩がいかに大藩とはいえ77万石。徳川800万石から勝てぬ喧嘩を売られたようなものでした。断れば潰される。薩摩藩は、腹をくくります。

 宝暦4年の年明け、1000人近い薩摩藩士は、ひと月ほどかけて美濃に到着します。四つの工事区域に分けられた藩士たちが、地元百姓と共にもっこを担ぎ、蛇籠を背負って水につかり、幕府役人に厳しく監視されながら耐えます。

平田靭負を祭神として海津市海津町に建立された治水神社では、毎年4月に船みこし奉納が行われる

 工事は、洪水で壊れた堤防の復旧から始まりました。一度出来た堤防が洪水で流され、さらに計画変更や追加工事も相次ぎました。特に、水流を分ける油島の締切は困難を極めました。木曽川と揖斐川の合流地点に堤防を築く工事です。大木に結んだ大石を川底に沈めたり、古舟に石を積んでいき、舟に穴を開けて沈めたりと危険な作業の連続でした。

 過労や疫病による死者33名。理不尽な幕府役人に命で抗議した藩士50名。しかし、平田は彼らの悲憤をあえて呑み込み病死と記しました。割腹は「お家断絶」と決められていたからです。さらに、当初10万両と言われていた費用は総額40万両にも膨らんでいたと言われます。

 そして、1年2カ月の歳月をかけて工事は竣工しました。平田は工事完成の報告を国元に送ると、すべての責任を負って現地にあった藩の工事役館(岐阜県養老町大巻)で自刃したとされています。手紙に私的な恨み辛みは一切ありませんでした。

 住みなれし 里も今さら 名残りにて 立つぞわづらふ 美濃の大牧

 平田靱負の辞世の歌と伝えられています。時を経て、日本最大の治水工事を成し遂げた薩摩義士の普請と無念は後世に残っています。

 油島千本松洗堰跡に、「宝暦治水之碑」が岐阜県海津町に建てられたのは1900(明治33)年のことでした。「薩摩のご恩 忘るべからず」という先祖からの言い伝えが碑に込められています。この薩摩藩士の苦衷を描いた小説として『孤愁の岸』(杉本苑子)があります。(土木学会土木広報センター)=毎月第1木曜日掲載