2021.05.21
渋沢栄一の故郷・血洗島と利根川 谷川彰英 連載15
「血洗島」の伝説
今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」が始まった。主人公は渋沢栄一。埼玉県も大変な偉人を生んだものである。日本を明治以降欧米諸国に伍する資本主義国に育て上げた立役者は、渋沢と言っても過言ではない。その功績は政治における大久保利通、伊藤博文、文化における福沢諭吉に匹敵するといってよい。
現地には血洗島の地名がついた交差点や公民館もあり、自治会の掲示版には渋沢栄一のポスターが張られていた
その渋沢は1840(天保11)年、武蔵国榛澤(はんざわ)郡血洗島(現・埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。この「血洗島」というのが今回の謎解きの対象だ。「血洗島」とは何ともおどろおどろしい地名だが、こういうケースではよく伝説が生まれる。「血を洗った」という強烈な印象を与えるからである。
例えば、赤城の山霊が他の山霊と闘って片腕を切られこの地で血を洗い流したとか、八幡太郎義家が利根川で戦った際に負傷し、ここで血を洗い流した、などという伝説が生まれることになる。渋沢自身も『龍門雑誌』の中で「恐ろしげなるこの村名のかげには幾多の伝説や口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕ををひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという」と述べている。
地名に伝説はつきものである。ことに中世以前になると何が真実かはわからない。伝説はその大半がフィクションである。囲炉裏を囲んで古老が語ったことが後に庶民の間に伝承されてきたものが伝説である。テレビもラジオもSNSもなかった時代のエンターテインメントであった。だから、話の中身当然のこととして奇想天外なものになることが多い。赤城の山霊の話などはその類いである。
同じ地名伝説でも、同県下の「熊谷」や「鴻巣」のように江戸時代の文献に由来が説かれていたり、その伝説にちなんだ神社が現存したりすると、史実ではないかもしれないが「それに近いことがあったんだな」と土地の歴史に思いを巡らせることもできる。しかし、この「血洗島」の場合はその手掛かりになるものは存在していない。(「熊谷」「鴻巣」の伝説については拙著『埼玉 地名の由来を歩く』ベスト新書を参照)。
実は「血洗」にまつわる地名は京都にもある。東山南禅寺の入り口にあたる地点に「蹴上」(けあげ)という一風変わった地名がある。その昔源義経がこの坂に差しかかった時すれ違った一行に誤って蹴られて水をかけられ、激怒した義経はその一行を皆殺しにしたという伝承がある。血のついた太刀を洗った池を「血洗池」と呼んだという。現在は小学校の敷地になっている。「血洗島」に比べればいくらか信憑性が高い伝説と言えるかもしれない。あくまでも「蹴上」という地名が中心になっているからである。
血洗島から北に約1.2キロほど行くと利根川が流れていた(遠方に見えるのは谷川連峰)。江戸時代には、もっと近くを流れ、たびたび水害にあっていたという
利根川の氾濫原から
「血洗島」の由来に関しては、以上のように「血」にこだわった解釈が多く見られる。それは「血」という文字がそれこそ「血生ぐさい」印象を与えているからだが、別の解釈もある。それは利根川の氾濫原によるというものだ。
この説によると、「ちあらい」は「血洗い」ではなく「地洗い」すなわち利根川の度重なる洪水によってできた氾濫原によるということになる。近世までは河川には確たる堤防は施されておらず、大雨が降ると河川は氾濫し、隣接する土地を洗い流す結果となった。その意味では「地(血)洗」は立派な水害地名である。
地名の世界では「音」(おん)が適当な漢字に転換されることはよくあること。「地」が「血」に代わったとしても何ら不思議ではない。血洗島の場合注目すべきはむしろ「洗」の方だろう。近年は利根川の治水対策が行き届いているので大きな氾濫は起きていないが、かつては「坂東太郎」の異名を持った暴れ川の利根川が「地を洗い流した」のである。土地を洗い流す現象と負傷して血を洗い流す行為がオーバーラップして生まれた地名ではなかったか。
この説を裏付けるように、近隣には「西島」「内ケ島」「大塚島」「矢島」「伊勢島」「高島」などの村名が江戸時代に存在していたことが確認されており、氾濫時の状況を彷彿させる。
渋沢栄一と彼の生家「中の家」。敷地内には渋沢の銅像が建っている
氾濫が生んだ深谷ネギ
JR深谷駅の前の小さな公園の中に渋沢の堂々たる銅像が建てられている。そこから車で10分ほどのところに渋沢栄一記念館がある。その裏手を流れる川沿いに10分も歩くと渋沢の生家の裏手に出る。そこに「青淵由来之碑」が建てられている。「青淵」(せいえん)は渋沢の雅号で、終生この雅号を使用している。「青天を衝け」のタイトルはこの雅号からとったものであろう。渋沢には「青」が合っている。
血洗島周辺には深谷ネギの畑が広がっていた。奥に見えるのは地区の鎮守である諏訪神社。拝殿は渋沢栄一が寄進した
渋沢の生家は「中の家」(なかんち)の屋号で呼ばれていたが、現在の建物は1892(明治25)年に再建されたものである。周囲には深谷ネギなどの畑がどこまでも広がっている。利根川は度重なる氾濫によって土地を洗い流したが、その代償として肥沃な土地を残してくれた。それが今日日本中に知られる深谷ネギを生んだのである。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載