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2021.06.17

直江兼続が指揮した治水事業 緒方英樹 連載18

 戦国武将・直江兼続と言えば、兜(かぶと)の前立(まえだて)が「愛」の一文字であることから「愛の武将」として知られています。その愛とは「愛民仁愛」、すなわち民を愛する意味が込められていたと言います。

 米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた兼続の「民への愛」とは、どのようなものだったのでしょうか。

山形県米沢市の米沢城跡に建つ上杉謙信と直江兼続(右)の銅像

戦国の雄、上杉藩の危機

 上杉家といえば、越後(新潟)領をはじめ広大な領地200万石を有した上杉謙信が全国屈指の藩として勢力を誇っていました。ところが、謙信亡き後、越後の春日山城主となった上杉景勝は、豊臣秀吉から会津(福島県)に移封され120万石となります。さらに関ヶ原の戦いで景勝は反徳川方についたため、徳川家康は上杉藩を米沢(山形県)に30万石で減移封します。

 関ヶ原以前、秀吉の信任を得て越後領を景勝の家老として治めていた兼続ですが、米沢城に景勝を迎えた時の家臣およそ6000人、その家族や職人、商人など約3万人が、120万石の時と同じ状態で米沢30万石という小さな器に受け入れたのです。当然、いきなり人があふれた土地に食い扶持は足りません。さらに、民を悩ませていたのは、松川(最上川)による度々の洪水でした。あふれた水が城下に流れ込んで領民を苦しめていたのです。

今に残る土木遺産「直江石提」

 兼続は、まず赤崩山 (あかくずれやま)の頂に登って、松川とその下流のまちをじっくり観察して具体的な計画を立てたと言われています。その計画とは、暴れ川をなだめて、洪水から米沢城下を守ること、同時に、城下町を発展させるため新たな土地の開墾を進めることでした。

 松川の氾濫を防ぐために築いたのが谷地河原堤防です。城下へ必要な用水を供給するため新たな堰(せき)を開削。米沢城下を流れる最上川上流の左岸に約3キロの石積み堤防を築きます。石を一つ一つ、人の力で積み上げる大規模な人海戦術による土木事業でした。これが通称「直江石堤」です。米沢城下を守る水防の拠点となりました。その地名から谷地河原堤防とも呼ばれていて、現在は「直江堤公園」として整備され、米沢市指定史跡となっています。

慶長年間に築造された直江兼続治水利水施設群(公益社団法人 ・土木学会提供 )

 この直江石堤の下流域約8キロを守った蛇堤、米沢城下へ配水する御入水(おいりみず)堰は、城下南部と東部の安全を確保しました。さらに、米沢城三の丸の堀(防衛施設)とした堀立川へ水を流しこむ猿尾堰、堀立川の急流な勾配を抑える為に設けた巴堀、武士達が帯刀して労役に従事した事から名づけられた帯刀(たいとう)堰など慶長年間に築造された治水利水施設群は周期的に改築されていきました。帯刀堰から取り入れた水は木場川として、現在も米沢の西北部を潤しています。鬼面川・帯刀堰取水口近くに水神の碑があります。

 こうした堤防工事は米沢藩家臣、すなわち武士の労力による「御手伝(おてつだい)」という形で行われ、直江兼続が指揮したということです。後に、米沢藩第9代藩主・上杉鷹山も完成した石堤を視察しています。

 これら直江兼続治水利水施設群は「近世初期の城下町米沢を形成する骨格となり、時代を超えて生活や歴史文化を支えている貴重な地域資産」であるとして、2008年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。以下が、認定された施設群と竣工年です。

谷地河原堤防(直江石堤):1601(慶長6)年/蛇堤(蛇土手):慶長年間/御入水堰:慶長年間/猿尾堰:年不詳/堀立川:1609(慶長14)年/巴堀:堀立川完成以降/室沢堰:年不詳/帯刀堰:1613(慶長18)年

 さらに兼続は、そうした治水事業をおこないながら新たな城下町整備、新田開発、産業おこしによって米沢藩の基礎をつくった武将として、土木史的にも刮目すべき存在と言えるでしょう。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)=毎月第1木曜日掲載