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2021.07.01

雄物川の氾濫と「強首」伝説 谷川彰英 連載17

 雄物川は秋田県の南端に位置する大仙山(標高920メートル)に水源を発し、湯沢市、横手市、大仙市を経由して秋田市で日本海に注ぐ秋田県最大の一級河川である。水系の長さは133キロ、流域面積は4710平方キロメートルで秋田県全域の40%を占め、そこに住む人口は70万人に及んでいる。

 この雄物川も古来、暴れ川として名をはせてきた。とりわけ1894(明治27)年8月には未曾有の洪水に見舞われ、死者・行方不明者334人、流失・全壊戸数1594戸、床下浸水1万8947戸という記録が残っている。さらに戦中の1944(昭和19)年7月には、死者11人、流失・全壊戸数19戸、浸水家屋7279戸という被害を受けている。

2017年7月の大雨で水位が上がった雄物川(秋田市内、左)と、浸水被害にあった大仙市刈和野地区

 そして47(昭和22)年7月には戦後最大という洪水が発生し、流域平地部の60%が浸水したというのだから、そのすさまじさは想像を絶するものがある。つい最近では2017(平成29)年7月の洪水が知られている。7月22日から23日にかけての前線性豪雨によって、横手市大森町に始まって大仙市の神宮寺、刈和野、峰吉川、寺館大巻、淀川、そして秋田市では新波で洪水氾濫が発生している。人的被害はなかったものの、家屋の被害は全壊3棟、半壊38棟、床下浸水1413棟に及んだ。

毎年夏に秋田県大仙市で開催される「全国花火競技大会」(大曲の花火、2019年8月31日撮影)。2020年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で中止を余儀なくされた

「大曲」と雄物川

 「大仙市」という大雑把な市名は平成大合併によって、2005(平成17)年に大曲市と仙北郡6町1村が合併して成立した。「大仙」の文字は「大曲」の「大」と「仙北郡」の「仙」をとってつけたというのだから、ちょっと悲しい。典型的な合成地名だ。

 大曲と言えば昔から全国から数十万という観光客を集める花火大会で有名だが、これはやはり「大曲の花火」ではあっても「大仙の花火」と言われると、それどこの話?と言いたくなってしまう。

 花火大会は雄物川を会場として行われるが、大曲という地名は雄物川の曲流に由来するのではと言われている。雄物川は高低差が少ないために蛇行を繰り返す川と知られ、そこから「大きく曲がる」つまり「大曲」となる算段だが、ことはそう簡単ではない。

 この地区は古くから「大麻刈」と呼ばれていたところで麻の産地だったという。「大麻刈」という地名が「大曲」に変えられたのは、江戸時代の1730(享保15)年のことであった。変更の理由は定かではないが、おそらくこの地を流れる雄物川の蛇行している様によるものによるものであろう。そもそも「曲がり」という地名は、河川や道路が曲がりくねっているところにつけられる地名である。

 ちなみに雄物川は江戸時代には「雄物川」「男物川」「御貢川」などと呼ばれていた。その御貢とは年貢のことだったという。雄物川は秋田県を縦断する舟運の要だったのである。

日本書記にも記されている「強首」伝説

 この雄物川は下流域に近づくほど曲流の度を増している。その曲流の激しい一角に強首の集落がある。今は平成大合併によって大仙市強首字強首(こわくび)となっているが、もとは仙北郡に属する強首村であった。

 この強首については、『日本書紀』に記されたある事件に関連して説かれることがある。

 仁徳天皇11年の10月、今の大阪の「堀江」を掘って堤を築いたが、堤がすぐ決壊しまう場所が二か所あったという。天皇は「武蔵の強頸(こわくび)と河内の茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)の二人を生贄に捧げれば成功する」と言ったので、強頸(首)は泣き悲しみながら水に沈んで死んだという話である。

 ここでは強首は川の洪水を防ぐ人物とされている。この強首でもそれに近いことがあったかもしれない。強首村は後に西仙北町の一部になるのだが、平成大合併によって大仙市となったので大仙市強首となっている。大曲駅で新幹線を降りてローカル線で3つ目が「峰吉川駅」だ。そこからタクシーで10分ほど行くと、雄物川に架かる大きな橋に出るが、それを渡るともうそこは強首の集落である。

秘湯の宿としても知られている樅峰苑。建物は国の登録有形文化財になっている

 集落の外れに今や強首温泉の本拠地とされる樅峰苑(しょうほうえん)という宿がある。登録有形文化財に指定された見事な建築物である。

 そこでいただいたパンフレットによれば、雄物川がこの付近で渦巻いて怖かったので「渡困(わたしこわし)と呼ばれていたが、その「困(こわ)」が「強(こわ)」になり、身も心も震え上がる状態であったことから「強首」という地名が生まれたという。

 その他にも、稲が「怖いもち病」に強かったので「強首」になったとか、首の力の強い人がいて、尻に縄を結んだ人と綱引きをして勝ったので「強首」になったなどの話も紹介されている。結論としてこう締めている。

 「このような言い伝えはあるが、いずれ『強首』という地名は、水害に悩まされた、この土地の人々の治水の思いから生まれた地名だと考えられる」

 これで決まりである。実際に洪水を防ぐために人を生贄として捧げるなどということがあったという記録はないが、太古の日本では行われたのであろう。

 強首地区は雄物川の氾濫原の上に形成された集落で川が氾濫するたびに大きな被害を受けてきたが、1947(昭和22)年のキャサリン台風を機に、集落を守るための輪中堤を築くことが計画された。実現したのは2002(平成14)年のことだったという。

 強首に残される伝承を大切にするとともに、集落の安全を祈りたい。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載