ソーシャルアクションラボ

2021.08.08

天竜川の氾濫と佐久間ダム 連載18 谷川彰英

未の満水

 長野県の伊那地方は諏訪湖から流れ来る天竜川沿いに開けた土地である。長野県の県歌「信濃の国」には「松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地」とあるが、伊那地方は他の三つの「平」と比べると決して平ではなく、天竜川の河岸段丘になる地形で、その意味で「伊那谷」と呼ばれることが多い。

 この伊那谷には「未(ひつじ)の満水」という言葉で天竜川による氾濫が伝承されている。時は1715(正徳5)年、6月17日から降り始めた雨は降りやまず、翌18日には至る所に土石流が発生しそれらが天竜川になだれ込んで、その結果伊那谷は細長い巨大な湖と化したという。この年が未年だったことから「未の満水」と呼んだとのことだが、それにしても「満水」とはうまく言ったものである。

 伊那谷の水害の特徴は、天竜川を挟んで東に南アルプス、西に中央アルプスの高峻な山々から土砂が大量に流れ込むという地勢にあると言ってよい。さらにこの地域は中央構造線に位置していて断層が走り、地盤が緩いことでも知られている。

1961年6月の「三・六災害」によって、長野県伊那地方で起きた地滑り

 この未の満水に準ずる被害を受けたのは、1961(昭和36)年6月に起こったいわゆる「三・六(さぶろく)災害」であった。6月23日から7月6日にかけて続いた梅雨前線は豪雨をもたらし、天竜川と支流が氾濫して多くの小学生が犠牲になったという。長野県だけで死者107人でそのうち伊那谷が77人を占めた。さらに家屋の全半壊1,144戸、流失家屋は380戸に及んでいる。天竜川の中流域の佐久間町、龍山町、横山町にも大きな被害をもたらした。天竜川中下流域では、流失・損壊家屋64戸、浸水家屋637戸、浸水面積28.8平方キロメートルに及んだという。未の満水はこの三・六の災害を上回るものであったと伝えられる。

高い山々そびえ、雄大な景色を望むことができる伊那谷(写真は飯田市)

天竜川は逆流していた?

 このような災害が発生した背景には天竜川の水系の特殊な条件があった。普通の川は山奥に水源をもち渓谷をたどって平野部に出て海に注ぐことになるのだが、天竜川の場合大いに様相を異にしている。水源は諏訪湖畔の岡谷市で、いわば都市河川が全ての始まりである。天竜川はそこから細長い伊那谷をかなりの急流で流れ込んでいく。伊那谷は谷とはいえ、両岸に沿って連なる河岸段丘はかなり広く、春先に訪ねると左右に残雪に輝くアルプスの峰々が連ね目を楽しませてくれる。

飯田市の天竜峡から景色が一変。天竜川は深い渓谷をくねるように流れる

 ところが、その様相は飯田市の天竜峡から一変する。この地点から天竜川は深い渓谷に流れ込んでいく。川は長野県を離れると愛知県と静岡県の県境を流れ、そこから浜松市に向かうことになる。

 数年前、伊那谷を訪れた時、地質学の専門家から「太古の昔、天竜川は南から北へ逆流していた」と聞いたことがある。その時は「そんな馬鹿な」と思ったものだが、よくよく考えてみるに億年単位で遡れば考えられない話ではない。

 とにかく不思議な川である。それを痛感したのは天竜狭の入り口に立った時である。それまで川幅広く流れていた天竜川が突然川幅数十メートルの天竜峡に流れ込むのである。土石流まがいの激流がなだれ込んだとしたら、川はせき止められ「未の満水」状態になっても不思議ではない。

「サクマ」の世界

 その先は私流に言わせれば「佐久間の世界」である。「佐久間の世界」とは私が勝手に命名したもので深い意味はないが、天竜峡に始まり浜松市にかけて天竜川が流れる急峻な溪谷をイメージしたものである。それは「佐久間」という地名に深くかかわっている。

1956年に完成した佐久間ダム(愛知県豊根村観光協会提供)

 その渓谷の一角に佐久間ダムが完成したのは1956(昭和31)年のことであった。当時静岡県の佐久間の地に建設されたので「佐久間ダム」と命名されたが、現在の所在地は以下のようになっている。 

左岸 静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間

右岸 愛知県北設楽郡豊根村

 高さ(堤高)155.5メートル、幅(堤頂長)293.5メートルの威容を誇る。ダム建設の直接的な目的は敗戦から高度経済期に向かっての電力不足に対応することであった。アメリカからの財政援助を受けて行われた工事はわずか3年4カ月で成し遂げられ、日本土木史上の金字塔と呼ばれた。

 「佐久間村」という村名はすでに江戸時代に存在していたが、1889(明治22)年の町村合併で、近隣の2村を合併して新制「佐久間村」となった。「佐久間町」として町制を敷いたのは、佐久間ダムが完成した1956(昭和31)年のことである。そして、2005(平成17)年、浜松市に合併され今日に至っている。

 さてこの「佐久間」の意味だが、これは意外に簡単である。地名の「サク」は「谷」を意味している。「マ」は文字通り「間(あいだ)」の意味だから、「佐久間」というのは「谷間」ということになる。佐久間ダムはまさに「サクマ」に建設されたのである。

 千葉県では「サク」は「作」の字を当てることが多く、いずれも山間部の小さな谷を指している。鋸南町にその一つを利用して建設されたダムがあるが、そちらも「佐久間ダム」を名乗っている。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載