ソーシャルアクションラボ

2021.08.21

大津波から人々を守った「稲むらの火」 連載19 緒方英樹

 2015(平成27)年12月22日の第70回国連総会本会議において、世界中で津波に関する意識を向上させるため、津波対策の強化を目的に、11月5日が「世界津波の日」として制定されました。日本でも「津波防災の日」と定められています。一体、どんな日なのでしょうか。

津波から村人を救った濱口梧陵の偉業を今に伝える稲むらの火祭り。たいまつを手に広八幡神社を目指す人たち=和歌山県広川町で2019年10月19日

 安政の大津波と濱口梧陵

 「津波祭り」という珍しい祭りが毎年11月3日、和歌山県の広川(ひろがわ)町で催されています。

 1854(安政元)年、紀州広村(現在の広川町)で起きた大津波の際、後世のために私財を投じて堤防を築いた郷土の偉人・濱口梧陵(ごりょう)らの偉業に感謝する祭りです。1933(昭和8)年、村人によって建てられた感恩碑前の広場で行われています。小学生、中学生も式典や堤防補修行事に参加しているということです。

 「ふるさとを大切にし、災害の恐ろしさを知り、お互いに助け合う」(堤防掲示板)という継承のためです。防災意識がきわめて高い広川町の背景にはいくつかの理由があります。

 一つは、歴史的に津波による甚大な被害を何度も被って植えつけられたDNAがこの港町にはあります。

 リアス式の海岸線が美しい和歌山県ですが、古くから熊野灘は大地震の震源となっていました。マグニチュード8以上の大地震が何度も襲い、その度に大津波が陸岸を襲い、被害をもたらしてきました。国指定史跡となっている広村堤防脇に立つ掲示板には、「広川町は古来より幾度となく津波に見舞われてきた。特に宝永4(1704)年、安政元(1854)年の大津波は、広地区が再起不能といわれたほどの大被害をもたらした」と記されています。

 それらの中でも特筆すべきは、安政元年の大津波です。11月4日午前9時頃、紀伊半島南東沖から駿河湾にかけて震源とする安政東海地震が発生、その31時間後の11月5日午後4時頃、紀伊水道から四国沖を震源とする安政南海地震が発生しました。被害は伊豆から四国にかけての広い範囲に及びました。

 古田庄左衛門の著した『安政聞録』によると、高さ約5メートルの大津波が15世紀初頭に築かれた波除石垣を乗り越えて村を襲い、背後の田んぼにまで侵入したとあります。「広村を襲う安政南海地震津波の実況図」からは、村の南北を流れる江上川と広川に沿って激しく流入している様子が描かれています。

 ペリー来航で国中が震撼していたちょうどその時、津波が和歌山全域を襲い、第1波、第2波、第3波と規模が大きくなり、紀州広村は再起不能と言われたほどの被害を受けました。梧陵はその時、34歳、広村にいました。

広川町の町役場前にある濱口梧陵像と梧陵の肖像

 梧陵は、1820(文政3)年、分家濱口七右衛門の長男として広村で生まれました。12歳で本家の養子となり、千葉・銚子で家業であるヤマサ醤油の事業を受け継ぎます。武芸と学問の修養にも努めた梧陵は、師友・三宅良斎に西洋事情を学び、31歳の時、佐久間象山の門下となり、そこで出会った勝海舟と交友を深めます。黒船来航によって国を憂えた梧陵は、「世界の大勢は門戸を開いて互いに交際することにある」と強く幕府に主張していた矢先、安政南海地震が発生したのです。その時、梧陵は広村に帰省していたというわけです。

 梧陵自身の手記(覚書き)から、地震津波の様子と梧陵のとった行動を見てみましょう。

 11月4日 四ツ時(午前10時)強震す。海面を眺めると海水たちまち増し、たちまち滅する 実に怖るべし……。

 大地震の後には津波が襲うと聞いていた梧陵は、すぐに村民たちを広八幡境内に避難させます。

 11月5日 七ツ時(午後4時)頃に大震動あり。瓦飛び、壁崩れ、塵煙空をおおう……。

 午後になって、村人が井戸水の異常な減少を伝えてきたため、梧陵は異変を感知します。案の定、午後4時頃に大地震が起こったのです。震動が静まるのを待って村を見回っていた梧陵が、村人たちを避難させていた時、「巨砲の連発するが如き響き」(手記)が起こり、津波が家々を押し流していきます。梧陵自身も津波に巻き込まれながら広八幡神社に何とかたどり着くと、難を逃れた村人たちが集まってきていました。ところが、倒壊家屋の残骸や倒木で逃げ道を失っている者たちが多くいました。梧陵は村人たちを救うため、避難する方向を示す「稲むら」(積み重ねられた稲の束)に火を放って逃げる目印としました。

 この「稲むらの火」を頼りに大勢の人が助かったといいいます。

海岸沿いに土盛りして造られた「広村堤防」。地元住民に「梧陵さん堤防」と呼ばれ親しまれ、今も津波の教訓が受け継がれている

その後、濱口梧陵はどう動いたか

 地震津波の後、梧陵のとった行動を世界中に知らしめたのは小泉八雲でした。刈り取った稲むらに火をつけて目印とし、暗闇の中で逃げ遅れていた村人を高台にある広八幡神社の境内に誘導した濱口の偉業を「A Living God(生ける神)」として紹介しました。広川町役場前に、稲わらをかかげて走る梧陵の銅像があります。

 その濱口梧陵の活躍を綴った『稲むらの火』(中井常蔵著)が、津波に立ち向かう防災のお手本として国定教科書に採択されたのは1937(昭和12)年でしたが、広村の人たちは、その34年前から防災の心を自らに刻んできました。1903(明治36)年、濱口の50回忌、広村堤防に土盛りしたのが冒頭で記した津波祭りの始まりです。

 稲むらの火で、住民を津波から救ったことで知られる梧陵ですが、広村が広川町になっても語り継がれている大事なことは、梧陵が「応急」、「復旧」、「予防」を行ったことです。

 九死に一生を得た梧陵は、被災で心身ともに大きな打撃を受けていた村民を見て、応急的に、隣村から年貢米50石を借り、紀州藩に援助を申請、みずからも被災者に玄米200俵を寄付しています。一方で、すぐ復旧に取りかかります。

 まずは落ち込んだ村民を励まし、食べるものと寝る場所を確保します。変わり果てた故郷に被災者小屋を建て、自分はもとより富める者から寄付を募って生活物資や農機具などを配布。そして、被災3カ月で、橋や道路、堤防などの復旧に取りかかったのです。

 特に、広村堤防工事で注目すべきは、その綿密な築造計画と、被災して茫然自失の村民に職を与える御救普請にあります。

上空から見た広村堤防(写真中央)

「梧陵さん堤防」とも呼ばれる広村堤防

 藩から工事許可を受けた梧陵は、18世紀初頭に地元豪族の畠山氏が築いた波よけ石垣(防浪石堤)の後方に、2列の防潮林、その背後に高さ5メートル、幅20メートル、延長600メートルという堤防をつくりはじめます。

 将来、津波から守ることが目的でしたが、同時にそれは、農閑期の失業対策であり、津波の被害で荒廃した村からの離散を防ぎ、自分たちの力で復興するという強い意識で再生させるためでした。延べ6万人余りの労力、具体的には毎日、老若男女を問わず400~500人の村人が農繁期を除いて工事に従事して、日銭を支給されました。濱口吉右衛門、岩崎家などにも協力を仰ぎ、濱口の自費もつぎ込んだ広村堤防は、1858(安政5)年に完成しました。堤防や海岸線に植えられた松樹やハゼノキは津波の勢いを消す効果も発揮したと地元で伝えられています。

 また、農地の堤防造成用地への転換で年貢の負担軽減をはかり、堤防建設を契機に地域再開発にも積極的に乗り出しました。流出した橋の再建による交通や流通の円滑化を進めながら、教育振興にも意欲を燃やしました。梧陵が広村の災害復旧に投じた私財は、現在の約5億円とも言われています。

 そして、1946(昭和21)年の昭和南海大地震では、堤防の背後に位置する村の中心地が浸水を免れ、住民を被害から守りました。地元で「梧陵さん堤防」とも呼ばれる広村堤防は、地域防災の象徴なのです。

津波災害の予防と継承

 そんな梧陵の偉業と精神、教訓を学び語り継ぎ、津波防災を学ぶために「稲むらの火の館」が2007(平成19)年4月、梧陵ゆかりの地・和歌山県広川町に完成しました。濱口梧陵記念館と津波防災教育センターからなり、災害への自助・共助だけでなく、津波災害から命を守る「応急」、「復旧」、「予防」を学ぶことが狙いです。

和歌山県広川町にある稲むら火の館。防災教育施設として濱口梧陵記念館と津波防災教育センターとからなる

 「TSUNAMI」は世界共通語となっています。小泉八雲が、濱口梧陵の偉業を書いた『生神様』(A Living God)のなかで、地震後に沿岸の村を飲み込んだ巨大な波を「Tsunami」と表現したことがその初出と見られています。しかし、津波の正しい知識が世界万国で共有されているわけではありません。

 04(平成16)年のスマトラ島北西部沖地震津波では、20万人以上の犠牲者を出したのは、住民の津波に対する知識・認識がなかったことも拍車をかけたと言われました。何しろ、1世紀以上大地震を経験していない地域のことです。ハザードマップも、津波警報システムもありません。まさに不意打ちだったことでしょう。波打ち際から離れていても、木や家が流される。いきなり寄せる波に気づいてから逃げまどう人々の阿鼻叫喚を、テレビ映像が何度となく映し出しました。その後も、09(平成21)年のサモア及びトンガ沖、07(平成19)年と13(平成25)年のソロモン諸島沖、そして11(平成23)年の東日本大震災など世界中で地震と津波による甚大な被害を被っています。その余震は、いまだに私たちを脅かしています。

 ところが、津波の本家本元である日本でも、警報が出たからといって海岸線から人影が全く消えることもないようです。津波に同じパターンはない。津(船着き場)を襲ってくる大波は、ものすごいスピード、高さ、エネルギー、時間差で攻めてきます。

 「稲むらの火」の場合のように、引き波から何度も来るケースだけではありません。できるだけはやく、高台に逃げることです。そして、今こそ、先人の残してくれた教訓や言い伝えを正しく分析して、正しく怖れることが必要だと思います。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)=毎月第1木曜日掲載