2021.10.08
上杉鷹山の「自助」「互助」「扶助」 連載21 緒方英樹
私たちは、水害をはじめさまざまな災害前後の対応で、共に助け合う地域コミュニティーの役割が重要であることを認識し始めています。阪神・淡路大震災では、一番多くの人命を救助したのは地域の住民による共助でした。普段から顔の見える関係が必要だと痛感もしました。
防災の基本は、「自助」「共助」「公助」とよく言われますが、その順番は柔軟に変化する場合もあるでしょう。いずれにしても、それらが機能する大切なキーワードの一つは「連携」ではないでしょうか。
本連載第19回の「大津波から村人を救った濱口梧陵」では、安政の時代に梧陵が地震大津波の後に命と財産を守る「応急」「復旧」「予防」を行ったことを紹介しました。今回は、現在のように災害対策への意識が世間に浸透していなかった江戸時代中期の封建時代に、「主権は在民にある」と標榜した上杉鷹山の実践した「三助の思想」を振り返ってみましょう。
米沢城跡にある松岬(まつがさき)神社境内に建立されている上杉鷹山の銅像
封建時代、藩主の「感性」とは
上杉鷹山(ようざん、治憲)と言えば、江戸時代中期、破綻寸前だった山形・米沢藩の財政危機を救った第9代藩主として知られています。鷹山とは、藩主隠居後の号です。
「西洋から学問が伝わる前、すでにこの国には、平和の道を知り、独自の人の道を実践、そのために死を覚悟した勇士がいたのです」
内村鑑三は、1994(明治27)年に英文で著した『Japan and Japanese』(民友社)で、鷹山のことをそう記しました。この書は日本では『代表的日本人』として発刊されました。内村が選んだ代表的日本人は、鷹山のほかに、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人です。
内村はこの中で、民のための改革をおこなった鷹山の「感性」に注目しています。ここでいう感性とは、封建時代のまっただ中、「主権は在民にある」と標榜して、民は藩主のためにあるのではなく、藩主は民のためにある、藩士も領民も同じ立場であることを示したその柔軟で勇気あるスタンス(立ち位置)の矜持でもあるでしょう。同時に、自分のためではなく、他人のために行動する「利他の心」にも通じていると思います。
米沢城跡は現在、松岬公園として整備され、市民の憩いの場となっている
大いなる改革への育み
では、そうした感性は、どのようにして育まれたのでしょうか。
受次ぎて 国の司の身となれば 忘るまじきは 民の父母
破綻寸前、首の皮一枚でつながっていた米沢藩を継ぐこととなった17歳の新藩主、上杉治憲が民の父母となったつもりで尽くす決意表明の句です。名君は、いきなり奇跡的に現れたわけではありません。藩主となって2年後、米沢領内に入るまで、鷹山の資質(前述の感性)は、改革を切望する人たちによって着々と育まれていたと見るべきでしょう。
崖っぷちの状態から、改革断行という重荷を成し遂げた鷹山を育んだ素地は幼少からの教育にあったようです。
藩校「興譲館」の跡地(米沢市中央2)には、その由緒が記された石碑がある
鷹山は、幼名・松三郎。1751(寛延4)年、日向国高鍋藩主・秋月種美(あきづき・たねみつ)の次男として江戸屋敷で生まれました。秋月氏が、1604(慶長9)年から幕末まで居城としていた高鍋城(財部城、宮崎県高鍋町)は現在、史跡公園(舞鶴公園)として整備されています。第7代高鍋藩主で兄の秋月種茂は、鷹山が米沢で興譲館(こうじょうかん)をつくった同時代、藩校「明倫(めいりん)堂」を創設しています。8歳から30歳まで、武士も農民も身分を問わず門戸を開いて人材を育成した教育機関です。
種茂は、困窮していた高鍋藩の財政再建を成しただけでなく、児童手当に相当する制度を創設します。これは世界初といわれています。「国づくりは人づくり」を信念とした民度の高いまちづくりの基礎を築きました。鷹山の郷里と血統にはそのようなDNAが継承されていたのです。
高鍋藩の江戸・秋月邸で鷹山の幼少時代を養育したのが高鍋藩家老、三好善太夫です。三好は米沢藩の養子となる10歳の鷹山に、教え導く心得「訓言の書」を切々としたためて送ります。切羽詰まった米沢藩に愛児のような鷹山を送る守り役の心境は、いかばかりであったでしょうか。鷹山は生涯この書を机の近辺より離さなかったといいますから、三好の真心は生涯に浸みたことでしょう。
鷹山の資質を見抜き、上杉家の養子となった10歳から14歳まで教えを与えたのが、米沢藩の藩医・藁科松柏(わらしな・しょうはく)です。藁科は、藩政を憂える家臣たちを密かに集めて家塾「菁莪館(せいがかん)」を開いていました。この菁莪館グループが藩政改革の中核となり、鷹山により登用されて改革に参画することとなります。その藁科が、自分の後任として推薦、鷹山が生涯の師と仰いだ人物が細井平洲(へいしゅう)です。
細井は、尾張で農家の出身ながら、江戸に出て人吉藩など四藩に迎えられた儒学者で、尾張藩校「明倫堂」の校長としても歴史に名を残します。後に、内村鑑三が当代最高の学者と評価した人物が、若き藩主の指南役として支えたというわけです。
上杉鷹山ゆかりの普門院前の広場に建てられた「細井平洲先生・上杉鷹山公敬師の像」(左が平洲、右が鷹山)。平洲の出身地である愛知県東海市から2014年に寄付された=米沢市関根
「先施の心」「愛民の思想」
その細井が徹底して鷹山に伝えたのが「先施(せんし)の心」でした。先施とは「先に施す」。目上の者が率先して、部下や身分の低い者、若い者に親愛の気持ちを示すことです。つまり、目下だからといって、相手からの働きかけを待つのではなく、自分から働きかけることが人を動かすというコミュニケーションの大切さを説きました。双方向性の対話こそ信頼関係を構築するという理論を、細井が封建時代に持っていたことに驚かされます。
その細井自身、後に鷹山が開いた藩校「興譲館」を任されると、藩校だけにとどまるのではなく、町村や民家に出かけていって教え、人々と交わりました。今でいう出前講義です。細井の諭した「愛民の思想」とは、親が子どもを愛するように、子ども(民)の悲しみや苦しみを受けとめ、それを何とか軽くするというもので、その基本的信条は、「学んだことを生かす」という実学でした。
藩主とは、国家(藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」として尽くす使命があるとしたのです。細井が遺稿として著した『嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)』は、沖永良部島に流された西郷隆盛にも影響を与えたと言われています。
弱者を切り捨てない地域社会をめざして
鷹山による改革の第一歩は、まず、従来の形式であった藩の重役だけの会議ではなく、下級藩士から足軽まで全員を一堂に集めて改革の道筋を説くことから始めました。これからの方向性をシンプルに分かりやすく示したのです。将来像をイメージさせて、そこに至るための方途を具体的・段階的に話しかけていきました。
そして、鷹山のテーマは、失ってしまったものをいかに取り戻すか。失ったものとは財産だけではありません。それによって廃れた人心、歩むべき道筋だったのです。そのためには、まず生活の基盤を整えなければならない。鷹山の改革は暮らしを整えるための社会資本整備と産業振興から始まりました。多くの人たちによって育まれた鷹山の感性は、具体的な実践として領地のインフラ整備や産業振興策として具体化されていきました。
鷹山の政策で特筆すべきは、弱者を切り捨てない地域社会をめざしたことでしょう。郷里・高鍋藩の兄、秋月種茂が飢饉などの非常時に備えて領民に籾倉(もみくら)を設けさせていたように、弟の鷹山もまた、富んだものが貧の者を助け、近隣が高齢者や病人の面倒を見る「扶助」「互助」の精神を植えつけて、天明の大飢饉(1782~1786年)をなんとか乗り切ったのです。
水不足に苦しんでいた地域を豊かな穀倉地帯に変えた黒井堰=山形県高畠町で
「水を治めることが、国を治める」
徳川吉宗をはじめ名君主の治水思想を学んだ鷹山は、本連載第18回の「愛の武将・直江兼続の治水事業」で紹介した直江兼続の事業を継承していきます。鷹山は、これらの治水事業で能力に応じた人材登用を行います。算術に秀でていた黒井半四郎を25石から勘定頭に取り立て、中之間年寄250石にまで加増させました。登用された黒井は、米沢の北部およそ770ヘクタールに、総延長約32キロに及ぶ農業用水路をつくるという一大灌漑事業を成し遂げました。この黒井堰は、水不足に苦しんでいた北条郷(米沢市北部から南陽市までの地域)に水を送るため、藩と農民が一体となってつくり、現在も、米沢平野の農業用幹線水路の基礎となって、最上川の水を水田に送り続けています。黒井堰遺構は現存する貴重な資産です。
「三助の思想」とは
鷹山は、「互助」の実践として、農民には5人組、10人組、1村の単位で組合を作り、その中で互いに助け合うこととしました。特に孤児、孤老、障害者といった弱い立場の人は5人組、10人組の中で見守り、助けることと指導しました。そして、村が火事や水害など大きな災害にあった時は、近隣の4か村が救援すべきことを定めました。グループ内で対処できない事態が起こった際は、近隣のグループが手助けする仕組みです。
鷹山は民の父母としての根本方針を次の「三助」としました。これが「三助の思想」です。
・自ら助ける、すなわち「自助」
・近隣社会が互いに助け合う「互助」
・藩政府が手を貸す「扶助」
1961(昭和36)年1月、アメリカのケネディ大統領の就任演説での後半、「わが同胞のアメリカ人よ、国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国家のために何ができるのかを問おうではないか」と締めくくっています。さらに、ケネディは日本人記者団から「日本で最も尊敬する政治家は」と質問されて、「上杉鷹山」と答えたという逸話がありますが、ケネディが内村鑑三の英文著作を読んでいたであろうことも想像できます。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)=毎月第1木曜日掲載