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2021.10.08

「暴れ天竜」に生涯を捧げた金原明善 連載22 緒方英樹

 天竜川は長野県茅野市の八ヶ岳連峰に位置する赤岳を源とし、諏訪湖から愛知県、静岡県を通って太平洋へ注ぐ長さ213キロの大河川です。流域面積は5090平方キロの一級河川であり、『続日本紀』では「荒玉河」(あらたまがわ)、平安時代には「広瀬川」、鎌倉時代には「天の中川」と呼ばれていました。天から降った雨が諏訪湖へ流れ込み、ものすごい速さで伊那の山々から竜のごとく下流へうねっていった姿が想像されます。

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諏訪湖から遠州灘に注ぐ天竜川(公益財団法人浜松・浜名湖ツーリズムビューロー提供)

 天竜川は、日本の屋根と言われる赤石山脈(南アルプス)・木曽山脈(中央アルプス)にはさまれながら伊那谷の中央を流れ、古来より、豊かな水が流域の農村に豊かな作物を与えた一方、大雨や長雨になると天竜川流域に甚大な土砂災害をもたらしてきました。天竜川の度重なる氾濫は「暴れ天竜」と呼ばれて流域民は苦しめられ、恐ろしい思いをしてきたのです。

 特に、1715(正徳5)年に起きた「未の満水」(ひつじのまんすい)と呼ばれる歴史的災害は、ちょうど6月の梅雨時に発生しました。未の年に勃発した満水とは天竜川流域を襲った大洪水のことで、当コーナーで谷川彰英さんが執筆されている連載「水害と地名の深~い関係」の第18回「天竜川の氾濫と佐久間ダム」で紹介しています。

 ●合同ヘリ●  大規模な土石流で多くの建物などが押し流された現場=5日午前11時59分、静岡県熱海市(共同通信社ヘリから) ●特記事項はありません●

大規模な土石流で多くの建物などが押し流された現場=静岡県熱海市で2021年7月5日

ものすごい速度で下流を襲う土石流

 大雨、大地震などによって山の斜面や渓流を大量の土砂が混ざった濁流が川を流下する土石流は、山津波とも言われて多大な被害をもたらします。7月3日に発生した静岡県熱海市の土石流でも甚大な被害が起きました。土石流の起点は、逢初(あいぞめ)川の河口から上流約2キロの地点と推測されています。標高の最も高い場所から土石流が発生、不適切に造成された盛り土が崩れたことで破壊力が増した可能性も指摘されています。

 300年ほど前、天竜川流域で発生した「未の満水」について、「飯田世代記」(飯田町小史)によると、被害は上伊那から下伊那南部にまで広範囲に及び、洪水に加え、土石流の被害も多く、死者・家屋流失・堤防破損など多くの被害が記録されています。例えば、「降り続いた豪雨で、山の地殻に緩みを生じ、一つの峰が崩れ落ちた」とあります。

金原明善(国立国会図書館デジタルコレクションより)

明善の決心と行動力

 ふだんは静かな天竜川も、いったん暴れだすと人間の力では到底手におえるものではありませんでした。毎年、梅雨時になると洪水が土手を乗り越えて田畑を流し、家や人、家畜をものみ込み込みます。そうした村人たちの悲惨を目の当たりにして育ったのが金原明善です。幕末の1832(天保3)年、すぐ近くを天竜川が流れる遠江国長上郡安間村(静岡県浜松市東区安間町)で生まれました。

 天竜川は1850(嘉永3)年から68(明治元)年にかけて5回もの大規模洪水と決壊を起こしています。特に明治元年の洪水では、天竜川の堤防が5キロ以上も決壊してしまい、100を超える村が3カ月以上も水浸しのままでした。

 多くの人命と財産が奪われる洪水の様子を見かねた36歳の明善は、「暴れ天竜」を鎮める決心をします。まずは、天竜川の沿岸に丈夫な堤防を造って本格的な治水活動を始めようと、明善は、京都の民生局(後の内務省)に右大臣・岩倉具視を訪ねます。

 天竜川治水工事を大急ぎで実行しないと農民たちはまた大惨事に直面すると懇願しますが、できたばかりの新政府はさまざまな課題が山積みでとても取り合ってもらえません。それならば自分たちでやるしかありません。明善は駿河、遠州、三河を回って民間資金を集め、天竜川下流に暮らす人たちの先頭に立って堤防の築堤工事に取り組みます。その姿に打たれた農民たちの参加も次第に増えていきました。

明善は自らしたためた書(揮毫=きごう)を提供する見返りとして寄付を集めたこともあった。85歳時の筆勢にも衰えはない(静岡県浜松市の明善記念館で)

「治山・治水・利水」に挑んだ遠州の義人

 しかし、資金不足のため工事は行き詰ります。1877(明治10)年、明善が決死の覚悟で直談判に臨んだのは、時の内務卿・大久保利通でした。浜松の一介の地主が政府一番の実力者に面会がかなうわけもないのですが、明善は大久保の屋敷前から動きません。「おいどんは、日本の内務卿であって、浜松縣の県令ではない」と言い放つ大久保利通。「天竜川沿岸の人々を災害から守る」という強い決意で、「自分の命、先祖代々の財産すべて投げ出すので足りない分だけ助けてほしい」と迫る明善の熱情が大久保を動かしました。こうして、政府からも、静岡県からも治水工事費用が捻出されましたが、すべての財産を投げ出した明善は無一文になったということです。

 それでも、明善は家族とともに川沿いに建てた粗末な仮小屋に住んで、果てしなく続く工事の先頭に立って働いたということです。さらに明善の治水事業で特筆すべきことは、事前に綿密な基礎調査を行ったこと、78(明治11)年には「水利学校」を設立して測量や河川改修の技術者養成を行ったことです。

 そして、政府に招聘されていたオランダ人技術者のリンドウ、木曽三川改修工事に関わっていたデ・レイケに教えを乞うほどの熱心さだったようです。また、利益目的ではなく「治山・治水・利水」の考えに基づく植林事業にも精魂を傾けた明善は、「自分の育てた山で死ぬのは本望」と、亡くなる半年前まで山を回っていたそうです。

 そんな明善の熱い思いは、後世に受け継がれました。1923(大正12)年、91歳でこの世を去った明善の天竜川治水計画が本格的に実行されたのは、38(昭和13)年に着工した浜名川排水幹線改良事業でした。そして、三方原農業水利事業は63年、天竜川下流水利事業は79年に完成します。

金原明善の生家。現在、記念館として公開されている(静岡県浜松市東区安間町)


 身をもって体験した災害が、その人の人生に転機をもたらして決定づける。そんな事例を歴史から学ぶことがあります。

 江戸時代、わが身の利害を顧みず、地域のために私財や生命を賭して一身を捧げた人は、義人(あるいは義民)と呼ばれました。郷土史や村史に記された地域づくりの先駆者をたどると、金原明善のように、日本独特の自然災害や地理的環境に影響を受け続ける民衆を近くで見て育ち、その問題解決に向けて一心不乱に尽くした人が多くいます。私たちの郷土をひも解くと、必ずそうした人を見出すことができるでしょう。

 明善の生家である明善記念館では、天竜川の治水、植林に功績を残した金原明善の遺品や資料を展示してその業績を紹介しています。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)