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2021.11.19

九州一の大河・筑後川に挑んだ人々 連載23 緒方英樹

一夜川と呼ばれていた筑後川

 昨今、活発な梅雨前線がもたらす記録的な大雨で、九州の広い範囲に「大雨特別警報」が発表され、筑後川では複数の支流が氾濫してコロナ禍の住民を苦しめています。「これまで経験したことのないような大雨」という表現は、2012(平成24)年7月に九州北部を2度にわたり襲った梅雨前線性の豪雨、17年7月の九州北部豪雨、翌18年7月の西日本豪雨等でも聞かれました。

福岡県久留米市を流れる筑後川

 筑後川は、阿蘇の九重山から筑後・佐賀の両平野を流れて有明海に注ぐ九州最大の大河です。国土交通省九州地方整備局筑後川河川事務所によると、1573(天正元)年から1889(明治22)年までの316年間に183回の洪水記録があり、かつては2年に1度は決壊すると言われていました。

 筑後川上流の河床は急勾配で流速が時速20㌔であるのに対して、中下流の勾配はきわめて緩く、下流の時速は4㌔強とみられています。筑後川源流部や上流で大雨が降ると勾配の強い上流を一気に流れ下り、傾斜が緩やかな筑紫平野で氾濫するという場面が多く見られました。筑後川は、一夜にして周辺の様相を一変させることから、「一夜川」とも呼ばれていたのです。全長143キロの母なる大河は、中・下流の沖積平野に美田の恵みを与える一方で、人為の到底及ばない災禍を筑後平野に及ぼしていました。

2012年7月の豪雨で増水し河川敷の駐車場や遊歩道も水没した筑後川=福岡県久留米市で2012年7月14日

 筑後川で最初に治水事業を行ったのは、江戸期最初の筑後柳川城主となった田中吉政と言われています。次に、江戸時代中期、武将から民政家に転身した成富兵庫茂安が、筑後川治水において施した土木事業とは、治水と利水が一体化された水利事業でした。当連載第11回「侍大将から治水家へ 成富兵庫茂安」でも紹介しました。茂安は筑後川下流右岸には大規模な二重堤防・千栗(ちりく)堤防を築いています。

 では、筑後川下流左岸の治水はどうだったのでしょうか。今回は、久留米藩について見てみましょう。

 久留米藩側では対岸の千栗堤防に対抗して、洪水被害を防ぐ安武(やすたけ)堤防を築堤します。しかし、強度的に千栗よりも弱かったため、有馬藩は土木の名人・丹羽頼母(にわたのも)重次を招いて荒籠(あらこ)を築造、河岸を強化して防護しました。

 荒籠とは、川岸から川の中央に向かって張り出している構造部です。堤防からせり出した石垣が護岸、川床の浚渫洪水防止、飲料水の汲みあげ場といった役目を持ちました。ただし、丹羽が企んだ一番の目的は、突堤を築くことで水流の大半を対岸の千栗堤防に向かわせて洪水の危険を低めることだったのかもしれません。そうした大規模で堅固な荒籠は「頼母荒籠」と称されましたが、明治の改修工事で撤去されて現在は見ることができません。

筑後川中流に江戸時代建設された山田堰=福岡県朝倉市

「五人庄屋」、大胆な計画を練る

 江戸時代初期、筑後川流域では、大河の恩恵にほとんど浴さない地域もありました。中でも、久留米藩領で筑後川中流域左岸の浮羽(うきは)郡一帯は、大河の傍らにありながら土地が高くて用水路もないために水を引けず、干ばつや水害が絶えませんでした。

 そして、1663(寛文3)年、大干ばつが村々を襲いました。その惨状に立ち上がって大胆な工事計画を有馬藩に訴えたのが「五人庄屋」と呼ばれた人たちでした。夏梅村、清宗村、高田村、今竹村、菅村(いずれも現在の吉井町西部)の庄屋五人は、かねてより苦境の続く村々に上流長瀬の入江から水を引くための計画を話し合っていたのです。

 その計画は、10㌔ほど筑後川上流の大石地点に水門=大石堰(せき)=を設け、隈上川まで水路(大石水道)を掘る。隈上川に堰(長野堰)をつくって水を溜める。その長野堰から水路(長野水道)を掘って、その隈上川から村に水を引くという綿密で大胆な水利事業でした。五人の庄屋は、農民の窮状とこの計画を有馬藩郡(こおり)奉行に計画案を示して実施の許可を求めました。

 庄屋たちの熱意に応える形で、有馬藩は土木に精通した普請奉行として名高い丹羽頼母重次を抜擢します。安武堤防など筑後川各所の堤防築造や護岸工事を手がけた丹羽は、水路実測やその他検分を終えると、「この大事業は民間庄屋の手に負えるものではない」と判断して藩直轄工事を進言して認められます。

 1664(寛文4)年1月、重次に指揮されて大石・長野水道工事は始まり、工事には延べ1万5000人が動員されました。幅3.6メートル、長さ13.3キロの水路工事の基礎工事は60日という短期間で完成し、石垣組み工事には有馬氏に召し抱えられていた穴太衆(あのうしゅう)2人も現地入りしていたと記録されています。

 その後、水路延長と大石堰の築造は、第2期、3期、4期と続き、取水の水門も2口に増え、水路も増幅されていきました。隈ノ上川の長野堰は第1期工事で完成していましたが、丹羽を監督とした大石堰は、延べ4万人を動員して完成します。大石・長野大堰に誘発されて恵利堰や袋野用水といった堰や用水路が各所に築造されていき、久留米有馬藩領の水田石高は増大、生産力は急速に高まっていったのです。

 大石堰は、1953(昭和28)年の西日本大水害で流失するも、固定コンクリート堰に改修されました。4大取水堰(大石堰・袋野堰・恵利堰・山田堰)は凶作に苦しむ農民を救済する為に庄屋たちが体を張った命がけの事業であり、広大な筑後平野の農業生産の基礎となりました。袋野堰は、現在、54年に完成した夜明(よあけ)ダムによる貯水のため水没していますが、ほかの3堰は現在でも流域の農地を潤しています。

故中村哲医師がアフガン東部の用水路建設の参考にした堰

 この中で、山田堰はアフガニスタンで人道支援に尽くした、福岡市のNGO「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さんが、現地のかんがい用水路建設の参考にしたものでした。中村さんは、2019年に現地の武装集団に銃撃されて亡くなりましたが、7年かけて完成した全長25㌔の用水路は、1万6500ヘクタールを潤しました。

中村哲医師が現地代表を務めた「ペシャワール会」が造った用水路=アフガニスタン東部ナンガルハル州シェイワ地区で2020年11月撮影

 庄屋たちや土木技術者、村人が尽くした業績は、今でも地域に語り継がれるばかりか、戦乱が続く国の住民たちのかすかな希望にもなっていることを忘れてはなりません。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)=毎月第1木曜日掲載