2021.12.22
流されない橋の世界的傑作・錦帯橋 連載24 緒方英樹
橋が流される
日本三橋の一つに数えられる山口県岩国市錦帯橋(きんたいきょう)は、江戸時代に錦川(にしきがわ)の岸から岸へ三つの大きな弧(アーチ)を描いて架かる5連の木造橋です。
しかし、錦帯橋は、なぜ川幅200メートルもある錦川に架けなければならなかったのでしょうか。ましてや木橋です。現在でも30メートルを超える木橋をつくることは至難の業とも言われます。そうした不可能に近い橋を架けざるを得なかった人々の思いとは何だったのでしょうか。
錦川は、2級水系錦川の本流です。歴史的に、激流による洪水氾濫を繰り返してきました。上流の中国山地の山々に降る雨は吸い込まれるように錦川に集まり、雨期や台風時には大量の土砂や流木を伴って下流へ押し寄せました。橋などいともたやすく流し去ってしまいました。そのため、江戸時代から明治時代、沿岸の家々では洪水に備えて屋根裏に川舟を持つ家もあったようです。
昭和の時代に入ってからも、1950(昭和25)年のキジア台風、51年のルース台風が多くの橋を流しました。2005(平成17)年の台風14号では、南桑地区と藤川地区で錦川の水が堤防を越える浸水がありました。錦帯橋も橋脚が流失しましたが復旧工事が行われました。最近では、今年8月の大雨で錦川の水位が上昇、警戒レベル4という氾濫危険水位に到達しました。
岩国藩三代藩主吉川広嘉公の像(山口県岩国市横山)
夢の懸け橋
関ヶ原の戦い後、徳川家康により出雲から岩国に移された岩国藩初代藩主、吉川(きっかわ)広家は、岩国城を築きます。この城と城下町をつなぐ橋を錦川に架けたのは2代目の広正です。しかし、水源が多く流域の広い錦川です。雨期の洪水は並みの橋など一気に呑み込んでしまいました。さらに、徳川幕府から一国一城が言い渡され、岩国城は築城わずか8年で取り壊しとなります。岩国藩は大名として認められていなかったのです。
以来、吉川家にとって、大名に昇格することと、錦川に架橋することは、同義の悲願であり、夢の懸け橋であったことでしょう。
この夢の実現に強い意志で挑んだのは、3代目藩主・吉川広嘉(ひろよし)です。若き藩主の願いは、流されない橋をつくることでした。その夢をはばんでいたのは200メートルという川幅でした。桁(けた)の橋では錦川の洪水に耐えることはできません。思い悩んでいた広嘉は、中国から渡来した禅僧・独立(どくりゅう)から一枚の絵を見せられます。中国西湖に架かる6石橋でした。
その石橋は、湖の中にある五つの人工島が六つのアーチ橋で結ばれていました。広嘉は両手で膝を打って合点したことでしょう。「よし、川の中に島を築こう」。流れない橋台への大きなヒントを見つけました。
緑に囲まれた城に美しい川と橋の風景。岩国城と錦帯橋は山口県有数の観光スポットだ
藩主・広嘉の情熱と、児玉九郎右衛門の技
広嘉は、家臣の中から若くて有望な者を選び、各分野の専門家を育てていました。まずは人材育成こそ事を成す基盤と考えたからです。近習に橋の模型を作らせるなど橋の研究をさせました。児玉九郎右衛門もその一人です。
九郎右衛門は、広嘉の発想を形にするため、諸国の橋を見て回ります。その中に甲斐(山梨)の猿橋(さるはし)がありました。
3大奇橋の一つ「猿橋」は、山梨県大月市の桂川に架かる
猿橋には通常あるはずの橋脚がありません。深い谷に架けられた橋を支えているのは、両岸に埋め込まれた太い木材・刎木(はねぎ)で、それを何層にも重ね、空中にせり出したその上に橋桁(はしげた)を受ける構造となっています。刎橋(はねばし)と呼ばれるこの形式の橋は、明治以前まで甲信越地方などで多く見られました。この猿橋を広嘉と九郎右衛門は参考にしたのかもしれません。
創建当事、世界にも例がないという木造アーチ橋の錦帯橋。その図面は残っていませんが、近代の橋梁工学をもってしても、九郎右衛門が組み立てた複雑かつ合理的な技術を解析することはなかなか難しいようです。アーチ構造を支える下部構造には、築城技術に長けたプロフェッショナルである穴太衆(あのうしゅう)が近江から呼ばれたと言われています。
事前準備では、周到な段取りが見てとれます。木材は城山のマツを切り出して乾燥させ、橋台の石垣や敷石は岩国山などから相当量を採石したようです。それらは、九郎右衛門の設計書に基づき、起工式までに組み立てられて、1673(寛文12)年、わずか5か月で落成しています。世界初ともいわれる先進工法を駆使した九郎右衛門の技術は言わずもがな、企画から設計、全体プロデュースまで関わった藩主・広嘉の情熱もまた世界に誇れるものです。
錦川に架橋された錦帯橋は5連の木造アーチ橋
錦帯橋は創建の翌年、橋脚流出で架け替えて以来、1950のキジア台風の洪水で流失するまで276年も錦川に架かっていました。その後、53年に再建。そして半世紀を経て2001(平成13)年に「平成の架替」工事が行われ、3年を要して5橋全ての木造部分が架け替えられました。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)