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2022.01.19

「輪之内」に託されたメッセージ 連載23 谷川彰英

 岐阜県大垣市の南に輪之内町(わのうちちょう)という町がある。1954(昭和29)年、それまであった福束(ふくつか)村と仁木(にき)村、大藪(おおやぶ)村が合併してできた町だが、それにしても輪之内町とはよくぞつけたものだと、地名研究者としては大いに歓迎したい。この町名には古来、この地に生きてきた人々の治水の知恵が投影されているからである。

とうとうと流れる長良川(上手前)と木曽川(後方)。増水時は大堤防が輪中の民家を守る

 輪之内町は木曽三川(さんせん)として知られる長良川と揖斐川に挟まれたいわば「川中島」であった。川の堤防が確定していなかった近世までは大雨が降るたびに川の氾濫被害を受ける洪水常襲地域であった。木曽三川と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川が流れ込む濃尾平野一帯には、このような集落が集中していた。この地帯では暴れ川を制するができないならばということで、自衛のために集落の周りを堤防で囲い、水の侵入を防ごうとした。こうして造られた堤防を輪中堤(てい)と呼び、この堤防で囲まれた集落を一般に「輪落」という。輪之内という町名はこの「輪中」からとったものである。

9.12水害で決壊した岐阜県安八町の長良川右岸堤防(矢印)。濁流は安八町の輪中地帯に流入、安八町の隣接の輪之内、墨俣3町の全住民約2万2000人が堤防の上や役場、鉄筋コンクリート建物に避難、1人が行方不明となった=1976年9月17日撮影

福束輪中堤が町を救った!

 輪之内町は度重なる水害に見舞われながらも、昔築かれた輪中堤によって被害を最小限に食い止めてきた町である。76年9月8日から台風17号の影響で降り続いた雨で岐阜県一帯の河川は増水し、ついに輪之内町の北に接する安八町(あんぱちちょう)の長良川の堤防が決壊し、安八町と墨俣町(すのまたちょう)の全域が水没した。これが9.12水害と呼ばれる災害である。安八町では床上浸水1744戸、床下浸水366戸、墨俣町では床上浸水1190戸、床下浸水152戸の被害を出している。

 安八町の南に接する輪之内町は安八町を挟む長良川と揖斐川の下流に位置するため、安八町に流れ込んだ濁流は輪之内町になだれ込んでも不思議ではなかった。いやそれが当然の成り行きであった。ところが輪之内町は安八町との境に築かれていた福束輪中堤の十連坊(じゅうれんぼう)堤防を閉め切って水害から町を守ったというのである。

 近世には100に及ぶ輪中があったとされる木曽三川流域でも治水工事が進み、輪中堤が無用の長物視され取り壊しが進む中での出来事だった。

岐阜県海津市にある海津歴史民俗資料館には輪中地帯にかつてあった堀田(ほりた)があり、地元の小学生がかつての輪中生活の一端を体験できるようにしている

輪中に生きる

 輪中地帯は低湿地帯で、古来河川の洪水との闘いを余儀なくされてきた。一見すると人が住むには不向きのように考えがちだが、土地の歴史を顧みるとそうではないことがよくわかる。これらの土地に多くの人々が住むようになり村を形成するようになるのは、江戸時代に入って幕府が新田開発を推奨するようになってからである。その最大の目的は米を増産することであった。輪之内町では「徳川将軍家御膳米」というブランド米を生産しており、徳川将軍家に献上していた。それは村人にとって誇りであったし、それ故、今日でも同町の名産となっている。

 輪之内町には新田開発の名残として「大吉(おおよし)新田」「楡俣(にれまた)新田」「福束新田本土」「海松(みる)新田」「藻池(もいけ)新田」など多くの新田地名が残されている。

 輪中堤が必要でなくなってきた背景には交通運輸機関の変遷があった。明治の中頃から末にかけて全国に鉄道が張り巡らされるまでは、我が国の交通運輸機関は専ら舟運(しゅううん)に頼っていた。車が交通運輸の主役を担うようになったのは戦後も高度経済成長以降の話である。鉄道主流のわずかな時代を除けば、それまで何千年もの間、日本人の生活を支えてきたのは舟運であり、その主な舞台は川であった。

 川は時に暴れて氾濫することもあるが、一方では氾濫によって豊かな土壌をもたらしてきたという側面もある。輪中でとれた米を運ぶには川に囲まれた輪中地帯は最適であったと言ってよかった。

かつての輪中地帯には、高い石垣に囲まれた水屋が見られた。洪水の時、家族が避難し、生活できるように造られた蔵である=1974年10月撮影

我が国初の「浸水被害軽減地区」指定

 輪之内町は2018(平成30)年3月、先に述べた1976年の9.12水害による長良川決壊の際、浸水の拡大を軽減したとして福束輪中堤を「浸水被害軽減地区」に指定した。この指定は2017年6月の水防法の改正によるもので、我が国最初の指定となった。

 このような指定の背景には、祖先が築いた輪中堤への深い理解と感謝の念が感じられる。さすがに町名を輪之内町と命名した自治体である。輪中は人と川との葛藤と共生を今に伝える歴史的遺産である。「輪中」の歴史を「輪之内」として後世に伝えようといる町にエールを送りたい。