2022.02.27
「享保の改革」と田中丘隅 連載26 緒方英樹
水田開発と、徳川幕府の曲り角
徳川家康が幕府を開いて以来、米の生産高が石高を左右し、年貢米が経済と財政の基盤となっていました。幕府、諸藩にとって耕地の拡大は、重要なテーマでした。
こうして、江戸時代初期から中期までの17世紀、米の増産をめざして川の下流にある沖積地を水田化する新田開発ラッシュが続きました。護岸工事が進み、川筋も付け替えられ、原野や干潟は美田に整えられて、江戸を中心とする流通ルートも整備されていきます。人々の暮らしは豊かになり、経済や文化も発展していきました。
一方、人々に豊穣をもたらした水田開発は、思わぬ弊害を与えます。全国的な水害の多発化です。
17世紀以前、河川の流域がことごとく耕地化されるまでは、川はあふれても人や田畑にさほど大きな危害を加えることはありませんでした。人々は、川から水路を引き、ため池を築造して耕地を広げましたが、危険な河川流域に住むのは極力避けたようです。ですから、自然現象としての洪水が、人の営みを脅かすリスクは基本的に少なかったと思われます。
ところが、18世紀前半になると、川の流域にまで村々は広がり人口も増加、川があふれるとたちまち人の営みを破壊します。水の便が良いという川沿いの利点は、家屋や田畑の流出、財産や命の危険と隣り合わせです。さらに、広範囲な開発によって農地の開墾が可能な土地はなくなり、それが同時に、経済の成長を行き詰まらせてしまいました。
そして、新田開発がピークに達した頃、幕府財政もひっ迫し、このような苦境をどう打開するかが第8代将軍、徳川吉宗に突きつけられました。それを含めた対策が、享保の改革です。
多摩川から玉川上水への取水口となる東京都羽村市の都水道局羽村取水堰(せき)。青い金属製のけたに丸太くいを立てかけ、むしろや砂利で隙間(すきま)を埋めて水をせき止めている。増水時にはけたを上げ、激流で丸太や砂利による堰を取り払い、水位を調整する。享保年間には採用されていたという「投渡(なげわたし)堰」という治水技術が今も使われている
大岡忠相から将軍吉宗へ
治水とは、洪水によって起こる災害から川の周辺に住む人々や土地を守ることです。
「新多摩川誌」(新多摩川誌編集委員会編著)に、「丘隅(きゅうぐ)をして多摩川流という河川土木技術を起した」とあります。この田中丘隅(休隅)という人物は、1662(寛文2)年、武蔵国平沢村(現在の東京都あきる野市)の商人の子として生まれました。それがなぜ、吉宗によって主導された「享保の改革」と深くつながっていったのでしょうか。丘隅が起こした河川土木技術とは、どのようなものだったのでしょうか。
天下泰平の元禄期に続く宝永期は、受難の時代に突入しました。幕府の財政悪化に拍車をかけるように各地で災害が多発します。
1707(宝永4)年には富士山が大爆発を起こしました。この噴火により、富士山麓から相模湾に注ぐ酒匂(さかわ)川の中流では焼けた砂が2尺(60センチ)以上も堆積しました。そのため、降雨のたびに斜面に堆積した焼け砂が斜面下方に移動して、酒匂川の河床が上昇し、土砂氾濫が発生しました。
神奈川県小田原市を流れる酒匂川に架かるJR東海道本線酒匂川橋りょう。かつては暴れ川として知られていた
酒匂川はもともと暴れ川として知られていましたが、降灰が川にたまって土手が切れ、足柄平野に何度も洪水をもたらしました。この治水事業を徳川吉宗は大岡越前守忠相(ただすけ)にゆだねます。「大岡裁き」で有名な名奉行ですが、江戸町奉行だけでなく関東地方御用掛を兼務していました。関東周辺の農政を担当し、新田開発や治水かん漑事業も任されていたのです。
その大岡忠相が、新しい田をつくり、水害を防ぐ実務に抜擢したのが紀州流の達人・井澤弥惣兵衛為永であり、酒匂川の復旧工事を頼んだ田中丘隅でした。彼らは、地方巧者(じかたこうしゃ)と呼ばれるテクノクラート、すなわち農政全般に通じた専門家でした。
商人の出である田中丘隅が河川の勉強を始めたのは50歳を過ぎてからで、江戸中期の高名な儒学者・荻生徂徠(おぎうそらい)に古文辞学を、将軍の側近・成島道筑(どうちく)に経書と歴史を学んだということです。
丘隅は、江戸遊学で見聞した豊富な経験と習得した知識を「民間省要(せいよう)」という意見書にまとめます。その水利編には、川の実情に即した治水工法の必要性や河川技術が説かれていました。丘隅は、新田が無制限に増えたことによって用水が引き分けられてしまい、恒常的な水不足状態をひきおこしていることを批判しています。例えば、武蔵野新田への給水の結果、多摩川下流の数万町の田地が荒廃しつつあることを報告しています。
この書物は師の成島道筑に上呈され、成島は、大岡越前を通じて吉宗に献上したという経緯があったようです。そこで、吉宗は丘隅にまず井澤弥惣兵衛為永の元で荒川の治水工事をやらせた後、酒匂川治水を命じたというわけです。
酒匂川治水と文命堤
1726(享保11)年、酒匂川改修工事は、幕府の川除御普請(かわよけごふしん)御用という治水奉行となった丘隅らの綿密な調査の上、丘隅が考案したと言われる弁慶枠(土俵)や蛇篭などさまざまな工夫をこらして堤防が完成します。弁慶枠とは、木の枠内に石を詰めて沈めておく水制のことで、激流にも動じない構造が特徴です。
丘隅は、酒匂川の濁流を春日森土手で釜淵に導き、さらに岩永瀬土手により千貫岩にあてて水の勢いを弱め、大口土手でその流れを東に向けたと、神奈川県南足柄市のホームページに説明されています。この災害再発を防ぐための巧妙な仕組みが、文命提と言われる土木工法です。
丘隅は、酒匂川堤防改修工事完成を記念して、大口土手と岩永瀬土手に中国の治水神「禹王(うおう)」を祭る文命堤碑を創建しました。
文命堤東碑(大口堤・神奈川県南足柄市斑目)
文命堤西碑(岩流瀬堤・神奈川県足柄上郡山北町岸)
そして、丘隅の最後の仕事となったのが多摩川下流右岸(現在の川崎区旭町あたりから大師河原まで)の堤防改修工事です。 幕府は六郷領村々の窮状を救うため、丘隅を派遣し、用水の大改修を計画しました。徳川家康の時代に開削された六郷用水は、多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領に至る用水路でした。
東京都武蔵野市関前2の都浄水場付近を流れる玉川上水。上水に沿う形で生える木々の緑が市民の憩いの場となっている
丘隅は、まず用水路沿いを巡って見分を行い、各村からの要望に耳を傾けました。そして具体化した改修計画を基に、1725(亨保10)年、南北に分かれる分岐点に両堀への流量を一定にするための水計水門を設置などの決定をしました。この用水大改修は、丘隅が29(享保14)年12月に亡くなるまで続きました。その後、江戸の飲料水供給を目的として約43キロにもわたる玉川上水が開削されました。
田中丘隅の回向墓は、生誕地のあきる野市平沢の廣済寺にあり、東京都指定有形文化財となっています。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)