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2022.02.27

「水海道」に隠された水と人のつながり 連載24 谷川彰英

 茨城県に「水海道」という市があった。「みずかいどう」ではなく「みつかいどう」と読む。「水海道町」が成立したのは1889(明治22)の市制・町村制によるものなので古い歴史を持っている。「水海道市」になったのは1954(昭和29)年のことだが、平成の大合併によって2006(平成18)年、石下町(いしげまち)を編入しただけなのに「常総市」という何の変哲もない地名に変えられてしまった。

 「水海道」という文字を見ただけで、多くの人々は水に弱いというイメージを抱くに違いない。確かに常総市はかの暴れ川として知られる鬼怒川と小貝川が流れ、古来洪水に悩まされてきたことは疑いようのない事実だ。

鬼怒川(左下)の堤防が決壊し、濁流にのみ込まれた住宅地=茨城県常総市で2015年9月10日

鬼怒川(左下)の堤防が決壊し、濁流にのみ込まれた住宅地=茨城県常総市で2015年9月10日

記憶に新しい2015年の「関東・東北豪雨」

 2015(平成27)年9月、台風18号が襲った。9月9日に東海地方に上陸した台風は日本列島を縦断し、関東地方と東北地方に甚大な被害をもたらしたことから、「関東・東北豪雨」と呼ばれている。

 9月9日から11日にかけて関東地方では600ミリ、東北地方で500ミリを超える大雨になった。17年10年の消防庁による被害のまとめによると、犠牲者は茨城県で15人、栃木県で3人、宮城県で2人の計20人を記録している。そのほか、住宅の全壊81戸、半壊7090戸、床上浸水2523戸、床下浸水は実に1万3259戸に達している。

鬼怒川の堤防からの越水で、みるみる水位が上がる茨城県常総市の住宅街(2015年9月10日午前11時34分)

鬼怒川の堤防からの越水で、みるみる水位が上がる茨城県常総市の住宅街(2015年9月10日午前11時34分)

 9月9日に降り出した雨は栃木県日光市五十里(いかり)で24時間で551ミリに及び、常総市付近では10日早朝には鬼怒川の数か所で越水が起こり、ついに午後零時時50分、同市三坂町で堤防が切れ濁流が市内になだれ込んだ。その結果、全市域の3分の1に当たる40平方キロメートルが水没した。常総市の中心市街地は鬼怒川と小貝川に挟まれた南北に伸びる低地だが、壊滅的な被害を受けた。死者2人、関連死112人のほか、家屋の全半壊は5000戸以上に及んだ。

 濁流の中に取り残された人は約100人。それらの人々を自衛隊のヘリコプターが一人ひとりを救出した光景はまだ生々しい記憶として残っている。関東鉄道常総線は、鬼怒川の決壊によって浸水の被害を受けて運休、水海道車両基地も被害を受けた。

鬼怒川の決壊で浸水した住宅地からホースなどを使って小貝川(下)に排水する国土交通省の作業員ら(右、2015年9月11日午後)と、冠水した関東鉄道水海道駅(同年9月11日午前)

鬼怒川の決壊で浸水した住宅地からホースなどを使って小貝川(下)に排水する国土交通省の作業員ら(2015年9月11日午後)。右の写真は冠水した関東鉄道水海道駅(同年9月11日午前)

柳田国男が唱えた「御津垣内」説

 水海道の由来については、平安時代の武将坂上田村麻呂が水を飲ませた故事(水飼戸:ミツカヘト)によるものともされているが、この種の田村麻呂伝説は、どこにもあるものなので聞き流しておく。柳田国男は御津垣内(みつかいど:水運の集散地)に由来するのではないかとしている。寛永年間には鬼怒川と利根川がつながり、水海道は江戸から下総・下野一帯を結ぶ河岸として栄えた。つまり、水海道は利根川水系の主要な河岸(船着場)として栄えたのである。柳田は『地名の研究』(1936年)の中で「水海道古称」としてこう述べている

 「御津のミツはいたって古くまた弘く、日本に行われていた地名であり、同時にまた一つの敬語でもあった。どこかこの附近にあった官公署または地頭などのために、貨財を積み卸しする舟着場が、夙(つと)にこの土地にあったところから、御津という地名がここにも生まれていたのである」

 「今日カイドウと長母音を用いるのは、おそらくは海道の文字に引かれたので、本来はカイド、カイト、またはカキウチ、カキツ等々という地方も多く、垣内と書くのが最初の漢字であったらしい。今風の言葉で解説すれば指定開墾地、公けの許可を受けて一定の地域を囲い、そこに稲田を耕して住む者のある場処といってよかろう」

 柳田は少年期から青年期にかけて利根川べりの布川(現・茨城県利根町)で過ごしただけに、この「御津垣内」説は妙に説得力がある。柳田が目にした利根川は明治中頃の風景だったが、その頃の利根川には多くの船舶が行き交い物資の流通の要であったことが自叙伝『故郷七十年』(1959年)に書き留められている。

川の「水」と「海」をつなぐ「道」

 仮に柳田の説が正しいとすると、ある時期に「御津垣内」から「水海道」に転訛したことになるが、その時期の詳細は分からない。ただ、「水海道村」は江戸時代には成立しているので、それ以前ということになる。

 ここで私の説を述べてみよう。私には、「水海道」という地名にはあるメッセージが託されているように思えてならなない。水海道が河岸だったとすると、川の「水」は自ずから「海」につながることになる。つまり、明治の中頃までは河川による水運(舟運)が輸送の中心であり、その意味で「川の水と海をつなぐ道」を意味していたのではないか。あくまで仮説の域を出るものではないが、半世紀もの間、全国の地名の由来を訪ね歩いてきた者としての推測である。

 「水海道」という地名は常総市以外に同じ茨城県結城市の鬼怒川沿いと、岐阜県岐阜市の木曽川沿いにある。いずれも川の水と海をつなぐところに位置している。

関東・東北豪雨で決壊した茨城県常総市三坂町の鬼怒川堤防決壊現場に建立された「決壊の跡」碑。水害の記憶を後世に伝えるために建てられた

関東・東北豪雨で決壊した茨城県常総市三坂町の鬼怒川堤防決壊現場に建立された「決壊の跡」碑。水害の記憶を後世に伝えるために建てられた。中央に見えるのは筑波山

水害という負の歴史だけでは語れない

 近年、異常気象による河川の氾濫によって、「危ない地名」とか「住んではいけない地名」などネガティブなキャンペーンが張られることが多いが、洪水によるデメリットだけを強調することに異議を申し立てたい。どんなに水害の危険にさらされようとも、そこに住むようになったのには必ず訳がある。それを探らずに一方的にネガティブキャンペーンを張ることには反対する。本連載を通じて得た教訓である。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日更新