ソーシャルアクションラボ

2022.03.14

“近代治水のみちしるべ” ファン・ドールン 連載27 緒方英樹

 福島県・猪苗代湖の十六橋畔に、1930(昭和5)年に東京電力が建立したファン・ドールンの銅像があります。この銅像は、第二次世界大戦中、軍からの銅像提供から守るために、安積疏水(あさかそすい)の関係者によってひそかに運び出され、地中深く埋められました。そして戦後、再び掘り出されて復帰したというエピソードがあります。「安積疏水の父」と称えられているファン・ドールンは、日本の治水に多大な貢献をした人物でした。

明治新政府は、なぜ、オランダの治水技術に頼ったのか

 1853(嘉永6)年、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航しました。江戸から明治という新しい時代に大転換するきっかけとなったのは、この4隻の黒船に代表される先端技術と圧倒的な外圧にあったのです。

 明治維新後、新政府がまず考え、特に力を入れて急いだことは、欧米列強に対抗できる近代国家づくりでした。それは、欧米に伍する近代国家づくりを成し遂げられる人づくりでもありました。なぜなら、日本には、近代科学の専門技術を有する人材がいなかったからです。

 明治政府は近代国家をつくるために、有能な若者を海外へ留学させる一方、先進的な科学技術を持つ各分野の専門家を欧米から招き、指導を仰ぎました。国づくりの骨格となる鉄道に重点を置きながら、長い間、水害により多くの手をこまねいてきた河川や港湾の近代的整備のため、オラング政府と折衝し、専門技術者たちを招いたのです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

近代的な治水技術で、低地に国土を広げてきたオランダ

 河川や港の改修に関し、オランダ人技術者に頼ったのには、大きな理由がありました。

 オランダの正式国名はネーデルランド(低い土地)です。海面より低い平地の多いこの国には、高潮や洪水と背中合わせでつき合ってきた歴史があります。国土面積は日本のおよそ11%、九州の大きさにほぼ相当します。その国土の半分が海抜0メートル以下で、長い間、ライン川の河床をどう上げるかに腐心してきました。

 「世界は神がつくり給うたが、オランダはオランダ人がつくった」と言われるように、その近代的な治水技術は低地に国土を拡げてきた過程で著しい発展を見せ、当時、河川の土木工事でオランダは世界一流と言われていました。その先進技術に日本政府は期待したのです。

 水害とは、洪水、高潮など水が多すぎるために起こる災害のことです。古来より水害に悩まされてきた日本でも、さまざまな対策が取られてきましたが解決には至っていませんでした。新しい国づくりにとって、河川や港湾の近代的整備は不可欠です。そこで、当時世界一流と言われたオランダから技術者を招いたというわけです。

 1872年に明治政府の招きで来日したファン・ドールンは80年に契約を終えてオランダに帰国するまでの間、日本各地の治水事業に取り組んだ(画像提供:土木学会付属土木図書館)

 明治新政府に請われて来日したオランダ人技術者は11人。1972(明治5)年、最初にやって来たドールンは、デルフト工科専門学校(現・デルフト工科大)出身の優秀な土木技師で、長工師(技師長)として、工兵士官のリンドウとともに招かれました。国内の重要な河川の改修計画と河口に新しい港を構築するための計画、舟運のための河川低水工事、砂防工事、港や運河の計画などが委任され、日本の重要な河川や港湾に携わります。

 その中で、代表的な関わりが安積疏水工事だったのです。

現在、都庁庁舎など高層ビルが立ち並ぶ一帯(左上)には淀橋浄水場があった(1961年、西新宿方面から撮影)。首都の近代水道の原形もまた、ファン・ドールンによって示された

経験から科学へ 近代日本の治水が変わる!

 ドールン来日後の仕事は、国内の重要な河川の改修計画と河口に新しい港を構築するための計画の立案でした。このため精力的に全国を調査して歩いています。

 ちょうど上水の改良を検討していた政府は、ドールンに改良の意見書や設計書の提出も依頼しました。ドールンは原水を沈殿、ろ過して鉄の管で圧送するという東京近代水道の原形ともいうべきものを示し、淀橋浄水場(東京都新宿区西新宿にあった東京都水道局の浄水場)の整備につながっていきます。

 利根川には日本で最初の量水標(りょうすいひょう)を設置します。量水標は川の水位を刻々記録するメーターのことです。洪水や増水の際に報告される水位を読み取ります。河川測量は河川の災害を防ぐための治水工事にとって重要視されていきます。

 ドールンは、利根川、淀川、信濃川の改修をはじめ、野蒜(のびる)港、函館港など数多くの港湾建設にも携わり、日本の治水事業に科学的な手法を導入していきました。日本の近代化のために果たした彼の一番の役割は、それまで経験だけに頼っていた技術に科学を取り入れたことです。

福島県郡山市の麓山(はやま)公園にある安積疏水麓山の飛瀑。安積疏水の記念碑的建造物として知られている。現在、疏水は大雨の際の洪水調整など防災面での役割を担っている

 そして、ドールンが指導した安積疏水は、福島県の猪苗代湖から郡山周辺の平野を水路で結ぶ大プロジェクトでした。この計画は、幕末から動いていました。失業士族の授産と殖産興業のために運動を進めていたのが大久保利通でした。

 内務省の南一郎平らが調査して、安積平野が開墾適地であることを政府に報告。全体設計は南、詳細設計は内務省勧農局の山田寅吉ほか日本人技術者によって測量・設計されていました。そして、猪苗代湖水の唯一の出口である十六橋水門の完成により、東西の流量調整が可能となり、水害防止を図り、対岸から安積への取水が可能となりました。

 ドールンは、その安積疏水工事を成功に導くために、セメントや煉瓦(れんが)などを外国輸入に頼らず、自前の材料作れるように進言しました。さらに、日本人技術者のために河川計画の指導書を著して、一日も早く日本が自立できるための方策を施したのです。

 安積疏水は、1942(昭和17)年の湖面低下工事に伴い、東京電力の小石ヶ浜水門が造られたことでその役目はひとまず終わりましたが、現在は大雨の際の洪水調整など防災の面で大きな役割を担っています。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)