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2022.04.19

真備町「川辺」地区を襲った西日本豪雨 連載26 谷川彰英

平成最悪の水害

 2018(平成30)年7月、西日本一帯を記録的な豪雨が襲った。梅雨前線が停滞した上に台風7と台風8号の影響もあって、西日本から東日本にかけて大雨になった。その被害の大きさから「平成最悪の水害」とも言われ、「西日本豪雨」と名付けられた。

 この豪雨によって、西日本を中心に河川の氾濫による浸水、土石流などの発生によって死者200人を超える大水害になった。昭和にさかのぼっても1982(昭和57)年7月に死者・行方不明者が約300人という被害をもたらした長崎大水害につぐ大災害であり、被害は死者263人、行方不明者8人、住宅の全壊6982棟、半壊1万1346棟、床上浸水6982棟、床下浸水2万1637棟に及んだ。

 死者・行方不明者の最も多かったのは広島県の114人、次いで岡山県の64人、そして愛媛県の27人が続いている。中でも岡山県倉敷市真備町(まびちょう)川辺(かわべ)地区は、高梁(たかはし)川に合流する小田川の堤防が決壊し壊滅的な被害を受けた。

真備町の由来

 平成の大合併によって「真備町」は倉敷市に編入されてしまったが、元は岡山県吉備郡真備町であった。町制が敷かれたのは1952(昭和27)年のことだが、町名の由来は何と奈良時代に活躍した吉備真備(きびのまきび)だというのだから恐れ入る。

 真備は695(持統天皇9)年、備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原に生まれた。現在の岡山県倉敷市真備箭田(やた)である。真備は716(霊亀2)年、第9次遣唐使の留学生に選ばれ、翌年、阿倍仲麻呂、玄昉らと共に入唐し、実に18年間にわたって経書や史書をはじめ天文学・音楽・兵学など幅広く学んだ。真備は当代一流の学者であり知識人であった。

 この吉備真備の「真備」を取って「真備町」としたことは画期的な施策であった。ご当地出身の人物名から自治体名を命名した例は極めてまれで貴重な存在であっただけに、倉敷市に編入されて地図上から消えてしまったのは残念と言うしかない。

小田川が決壊し濁流に覆われた真備町地区(下、2018年7月7日)と現在の様子。中央は井原鉄道川辺宿駅

真備町の被害

 倉敷市に編入された結果、旧真備町地区は市の最北西部に位置することになった。この地区には北から高梁川が流れ、その高梁川に西から小田川が合流する地点に当たっている。川が合流する地点が危険であることは当然のことだが、西日本豪雨ではバックウォーター現象の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。

 真備町では7日朝までに小田川とその支流の高馬川の堤防が決壊して、真備町の4分の1に当たる1200ヘクタールが浸水したという。浸水の深さは最大で5.8メートルにも達しという。死者は51人で、県下の犠牲者64人の大部分を真備町が占めたことになる。

 中でも小田川沿いに広がる「川辺」地区の被害は甚大で、地区全体が水没。約1700軒の99%以上が全壊だったというから、そのすさまじさに驚く。最大水深は4.3メートルにも達したという。

 確かにこの「川辺」という地名は水害の危険性を予知していたと言えるだろう。日本語で「辺」が付く言葉は多い。「山辺」「海辺」「沼辺」「田辺」「岡辺」「岸辺」などである。いずれも「⚫⚫の辺り、付近」を意味している。そう考えると「川辺」という地名が水害の危険性を示唆していることは否定できない。

西日本豪雨から約3年4カ月が経過した2021年11月、「豪雨災害の碑」の除幕式が行われた。コロナ禍により4カ月遅れの式典だった=倉敷市真備町川辺で2021年11月14日

 だが川辺地区の人々は負けてはいない。2021(令和3)年11月、災害の風化を防ぎ後世に伝えるために災害の記録を示す碑を建てた。真備公民館川辺分館に建てられた石碑には被害の実態が刻まれている。頑張れ、川辺!

秀吉の「水攻め」

 以下述べるエピソードは付録である。本連載の基本的コンセプトは、水害からいかに人の命を守るかにあるが、長い歴史を振り返ってみると、逆に人工的に水害を起こして相手を追い詰める戦術が取られたことがある。

 天下統一を目指す織田信長の命を受け羽柴秀吉(当時)が中国地方を支配していた毛利氏をけん制するために、備中高松城(岡山市北区高松)を水攻めにしたのは1582(天正10)年のことである。秀吉は高さ8メートルの堤防を約3キロにわたって築き、近くを流れる足守川の水を流し込んで城を孤立させた。堤防はわずか12日間で築いたとされ、この戦術に毛利方はなす術もなく、城主の清水宗治は舟を浮かべてその上で自刃したと伝わる。

現在は公園として整備されている備中高松城跡には、「高松城水攻め」ののぼりが立つ。夏にはショウブやハスの花が咲く=岡山市北区高松で

 この戦略は現代の水害防止の方略を逆手に取ったものだが、天下人秀吉の知恵を讃えるべきなのだろうか。この戦術で戦っている最中に本能寺の変が起こり、秀吉は急きょ、京に戻って明智光秀を討ったというのはよく知られた話である。(作家、筑波大名誉教授)=毎月第3木曜掲載