ソーシャルアクションラボ

2022.04.19

北海道開拓の命運は石狩川治水にあった 連載29 緒方英樹

歴史に残る小樽港北防波堤

 日本で「港湾工学の父」と言われる廣井勇の胸像が、廣井が他界した翌年の1929(昭和4)年、小樽市民や広井の薫陶を受けた多くの人々によって小樽公園に建立され、いまは港がよく見渡せるようにと運河公園に移設されています。

 胸像の銘板には、廣井の略歴が次のように記されています。

 「文久二(一八六二)年高知生まれ。札幌農学校第二期生。アメリカ、ドイツで橋梁工学・土木工学を学び、帰国後、札幌農学校教授。のち北海道の港湾改良と築港工事に携わる。彼の指導による小樽築港第一期工事は、日本の近代港湾建設技術を確立し、世界に高く評価された」。

廣井勇の出身地、高知県佐川町にある廣井の銅像。2021年4月に建立された( 廣井勇を顕彰する会提供)

 廣井勇は、「港湾工学の父」と呼ばれた土木技術者です。

 日本近代土木のパイオニア・廣井勇の代表作と言われる小樽港北防波堤は、外洋から打ち寄せる荒波を防ぐために海中に設置された日本初の外洋防波堤です。

「砂浜の中の川」に託された夢

 小樽という地名は、アイヌ語でオタルナイ(砂浜の中の川)と呼ばれたことに由来しているようです。そこに集落が形成されたのは江戸時代から幕末にかけてのことでした。

 1869(明治2)年、北海道に開拓使が置かれると、北海道開拓において小樽はきわめて重要な港湾と位置付けられます。しかし、当時の小樽港は、石狩湾の地形を自然利用しただけの港だったので、遮るもののない港の中にまで荒波が押しよせ、事故が相次いでいました。

 アメリカで先進技術を学んだ廣井に、壮大な夢が託されました。

 97(明治30)年から11年間の歳月をかけた小樽築港第一期工事は、強烈な風浪や荒波に向かって防波堤をつくる難関でした。その過程で、どうしても解決すべき技術的課題は、強いコンクリート堤にするためのセメントにありました。廣井は試行錯誤の末、セメントに火山灰を混ぜると海水に強いことを発見。ブロックのつくり方や積み方にも工夫を凝らしたのです。

 さらに、防波堤に使うコンクリートの試供体を6万個以上つくります。これこそ百年試験と呼ばれるもので、歳月とともにコンクリート強度がどう変化するかを調べ続けられました。この明治・大正期の大事業は、現在も機能する土木の金字塔と言えるでしょう。

小樽市の毛無山展望所から見た小樽港。海上に見えるのが北防波堤。左上の写真は1899(明治32)年に撮影された小樽港の様子。右上に工事中の北防波堤が見える

廣井門下生の自然主義エンジニア、岡﨑文吉

 廣井は、札幌農学校で橋梁学、港湾工学ほか土木工学全般を教えました。札幌農学校工学科創設以来8年間、廣井の直接指導を受けた工学士は16人で、彼らは、その後に連なる広井山脈の初期門下生です。その多くは、学や官の世界で大いに活躍しました。

 札幌農学校工学科第一期生として入学した岡﨑文吉の卒業証明には、新渡戸稲造、広井勇といったそうそうたる教授が名を連ねています。世界的工学者・廣井勇の一番弟子だった岡﨑は、札幌農学校初の工学士として卒業、研究者として残り、22歳で助教授となります。師である廣井が北海道庁技師になると、岡﨑も道庁技手として奉職。函館港防波堤工事にも携わりました。当時、岡﨑の設計した豊平橋は、北海道初の鉄橋です。

 北海道開拓は、札幌周辺から始まり、開拓民は石狩川流域沿いに大地を拓いていきました。ところが、開拓がようやく本格化しようとしていた矢先、98(明治31)年、石狩川で大洪水が発生しました。4月の雪解け水による氾濫、8月から9月にかけての連続豪雨、さらに大暴風雨もあって流域の被災は激甚でした。この大洪水は、それまでの利水中心の河川事業から本格的な治水事業への転換を促す契機となったのです。

環境と調和した川づくり

 大洪水の翌月、開拓使事業を引き継いだ北海道庁は、北海道治水調査会を設置、委員の中に田辺朔郎、廣井勇、そして道庁技師になったばかりの27歳、岡﨑文吉がいました。岡﨑は、北海道庁初代石狩川治水事務所長として、約12年、実地調査と海外の治水事情の研究の後、1909(明治42)年に「石狩川治水計画調査報文」を北海道庁長官に提出しました。石狩川を直線化してショートカットするのではなく、蛇行した川をできるだけ現状のまま維持し、不都合な箇所だけを自然の法則によって改修することを提案したのです。

 岡﨑の提案主旨は、次のようなものでした。

 「水は決してまっすぐ流れない。地形や川底の土質などによって、水は最も抵抗の小さなところを流れ、しばしば流路を変える。河道は水が流れやすいところへとできる。この自然の法則を模範として、その摂理を第一に尊重しなくてはならない。それが本来の川と人とのつきあい方だ」と主張します。

石狩平野を流れる茨戸川(ばらとがわ)の岡﨑式単床ブロック護岸技術は北海道開発に貢献し、さらには海外にも継承され、国内に普及している連節護岸の礎になった。竣工年:1917(大正6)年 2015(平成27)年度土木学会選奨土木遺産

 石狩川は、アイヌ語で「イ・シカラ・ペツ」。曲がりくねった川に由来すると言われます。

 岡﨑が提案したのは「蛇行した石狩川をできるだけ維持し、自然の法則によって改修する」という人と自然が共存するための治水でした。これを岡﨑は、「自然主義」と称しました。そして、石狩川洪水の要因として、開拓による樹木の伐採や、堤防敷地の開墾など、人為的に河川が荒廃した事を、著書『治水』=1915(大正4)年12月=の中で指摘しました。

 その上で岡﨑は、「岡﨑式単床護岸」なる工法を考案。コンクリートブロックに鉄線を通し、壊れやすい河口や川岸に敷き詰めたのです。

 石狩平野を流れる茨戸川(ばらとがわ)の岡﨑式単床ブロック護岸技術は北海道開発に貢献し、さらには海外にも継承され、国内に普及している連節護岸の礎となりました。

 現在、「多自然型川づくり」や「自然再生事業」といった河川環境保全によって、環境と調和した川づくりが進められています。まさに今、岡﨑が示した自然の法則から導く治水など、人と自然とのかかわり方が見直されています。それは、廣井の自然摂理に配慮する工学に根ざして、一番弟子の岡﨑の自然水利学で実現されたとも言えるでしょう。(理工図書顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、同学会土木史広報小委員会委員長)=毎月第1木曜掲載