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2022.04.21

「鳴滝」伝説の警告 連載28 谷川彰英

甚大な被害をもたらした長崎大水害

 1982(昭和57)年7月23日から24日未明にかけて、長崎市一帯に歴史的な豪雨が襲った。長崎市の北に位置する西彼杵郡長与町では1時間に187ミリを記録し、これは時間雨量最高値として知られる。

被害は次の多きに上った。

死者・行方不明者 299名

破損住居     39,775戸

崖崩れ      4,306か所

地すべり     151か所

長崎市内を流れる中島川氾濫のつめあと=1982年7月23日撮影

 中でも同市鳴滝地区では23日の夜9時半頃、山の急斜面が崩れて300メートルの土石流が発生し、家屋10戸が全壊し、死者23名、行方不明者1名の被害を出している。

 この「鳴滝」という地名は要注意である。もともと「滝」は険しい地形の場所を流れ落ちる水を意味しているので、水害に関連した地名であると言ってよい。

村人を救った京都の「鳴滝」

 京都市にも「鳴滝」という地区がある。正確に言えば京都市右京区鳴滝だが、実際は鳴滝泉谷町、鳴滝泉殿町、鳴滝宇多野谷、鳴滝沢など10数個の町から成っている。仁和寺の山寄りの一帯である。

 ここには、こんな伝説が残されている。

 その昔、この里は長尾の里と呼ばれていた。ある日の午後、静かなこの里に異様な音が響いてきた。いつもは静かな山里なのに、なぜか山麓にある滝がゴウゴウと鳴っているのである。「どうしてかわからぬが、何か不吉な予感がしてならん」と老僧が言うのを聞いて、村人たちは村はずれの寺に避難した。

 すると、その夜のこと。大洪水が村を襲い、田畑はもちろん家も小屋も残らず押し流してしまった。村人たちは、あのゴウゴウと鳴った滝のお陰で助かったことに感謝し、それ以降この村を、「鳴滝の長尾」と呼んだという。

この目で確かめに伝説の里へ

 この伝説の里を訪れたのは、もう10年以上も前のことである。『京都奈良「駅名」の謎』(祥伝社黄金文庫、2009年)の本を書いた時、「鳴滝駅」の存在を知り、どうしてもその鳴滝をこの目で確かめたくて地名ハンターの旅に出たのだった。

 京福電鉄線の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅」で北野線に乗り換えて3つ目が「鳴滝駅」である。駅周辺は高級住宅地で、滝らしきものは全く見当たらない。もっと上で訊いてみたらと言われたので、御室川(通称・鳴滝川)に沿って小さな渓谷を上っていくと、川とも滝とも言えそうな鳴滝川に沿って家々が並んでいる。川に沿って細長く集落が続いているところから「長尾の里」と呼ばれたのだろう。

 それにしても、ここに大雨が降ったら大変な被害を受けるであろうことは容易に想像できた。単なる川の氾濫ではなく鉄砲水・土石流の脅威である。確かな記録としては残されていないにしても、度重なる洪水の被害から先のような伝説が生まれたのだろう。ところが地元の人に訊いても鳴滝がどこにあるか知らないという。タクシーの運転手さんと一緒に探していたところ、偶然出会った古老が知っていて教えてくれた。

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川幅が狭く、急な流れの鳴滝川=京都旅屋・吉村晋弥さん提供

地名に託された「予知」と「避難」

 伝説はこれまでとかく単なる作り話と見なされがちだったが、この種の災害にちなむ伝説の大半は後世への警告であると言ってよい。

 滝がゴウゴウと鳴ったのは災害の予知である。現代では気象庁から情報がテレビなどを通して伝えられるが、昔はなかったので「老僧」が登場することになる。肝心な点は災害を「予知」することの大切さを「鳴滝」という地名に託していることである。

 次に注目すべきは、この「予知」に従って直ちに村はずれの寺に「避難」していることである。その結果、田畑や家は流されたものの、村人の命は助かったという話である。

 災害の「予知」と安全な場所への「避難」は、人々の命を救う二大原則であり、それは今も変わらない。

 伝説は古人から現代人に向けてのメッセージである。(作家、筑波大名誉教授)=毎月第3木曜掲載