2022.05.05
越後平野を水害から守った宮本武之輔 連載31 緒方英樹
文学と芸術を愛したロマンチスト
宮本武之輔は1892(明治25)年、愛媛県の風光明媚な小島・興居島(ごごしま)に生まれました。松山市の沖合に位置する瀬戸内海の離島です。
1939(昭和14)年ごろの宮本武之輔=土木学会附属土木図書館提供
13歳のとき故郷を出て、広島、大阪と居を変えた後に上京しています。東京の錦城中学に3年から編入して卒業まで首席。その編入時から49歳で他界する寸前までの35年間、日記を書き続けました。成績優秀により第一高等学校に無試験で入学。同期に、芥川龍之介、久米正雄、同じ四国出身の菊池寛らがいました。
文学や芸術をこよなく愛し、ボートを漕ぎ、酒を飲み、青春を謳歌します。菊池寛は宮本の文才を高く評価していたそうですが、目指した文学への道は、親族の猛反対や家計の事情もあって断念します。
日記に記す「立ち止まれ、そして考えよ」
「立ち止まれ、そして考えよ」
宮本の日記にしばしば出てくる一節です。宮本が、一高の時に影響を受けたトルストイの言葉です。その日記には、宮本が東京帝国大学工科大学で廣井勇教授の薫陶を受けていたころの一文があります。
「技術者というのは人のつけた名であり、人というのは神の与えた名である。自分は技術者になる前に、まず人にならなければならない」
宮本は、大学を成績最上位の学生に与えられた銀時計組で卒業し、内務省に入ります。入省後、利根川第二期改修事務所、荒川改修事務所に勤務の後、内務省の命により欧米に渡って鉄筋コンクリートの研究に励みました。帰国して工学博士の学位を取ると、利根川、荒川の河川改修に従事しました。
特に、荒川放水路工事では、主に小名木川閘門の設計施工を担当します。この閘門は、最新の鉄筋コンクリート工法を導入、宮本は建設現場の先頭に立って改修工事を指揮しました。やがて、コンクリート工学、河川工学の第一人者として、民衆のための道を着実に歩んでいきますが、宮本にとって大きな試練が待ち受けていました。
大河津分水路は越後平野を水害から守るために、当時の土木技術を駆使して建設された=国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所提供
暴れ川の信濃川に挑む
新潟県中部から北部にかけて広がる現在の越後平野は、日本屈指の穀倉地帯として知られますが、かつて信濃川からの土砂が堆積して形成された平野は、長い間、沼と湿原の広がる不毛の地でした。新潟で生まれた良寛は、信濃川洪水の惨状を多くの詩に残しています。次の文は、その一部です。
「堤塘 竟に支え難し」 堤防もついに支えることができなかった
「一朝 地を払うて 耗(そこな)う」 たった1日ですべて失ってしまった
<『良寛詩集』大島花束、原田寛平訳注 岩波文庫>
国土交通省北陸地方整備局によると、その洪水を直接日本海へ流すという構想は、江戸時代中期に立てられ、以来、約200年の歳月を経て、1909(明治42)年に近代土木工事による本格的な工事となり、1922(大正11)年に通水したということです。
しかし、通水からわずか5年後の1927(昭和2)年、宮本の友人・岡部三郎設計による信濃川大河津分水の自在堰が川底の浸食により陥没・倒壊してしまいます。自在堰とは、信濃川下流域へ流す水量を調節する構造物のことです。分水路に流れる水量を主に調節する、その自在堰が壊れたのです。
川底の浸食で崩壊した信濃川大河津分水の自在堰=土木学会附属土木図書館提供
自在堰崩壊の雪辱をかけた信濃川補修工事
宮本はすぐに現場へ駆けつけました。信濃川の水は多くが分水路側に流れ、信濃川の下流域にある田畑は水を断たれ、河口の新潟市では水道水まで枯渇しました。壊れた自在堰の代わりに可動堰をつくるという補修工事は、宮本にとって自在堰崩壊事故の責任をとらされた親友や先輩の雪辱戦であり、土木技術の威信をかけた背水の大仕事となりました。
宮本は荒川改修工事時代の上司・青山士を要請します。ともに廣井勇の弟子です。1927(昭和2)年、青山は内務省から新潟土木出張所長(現在の北陸地方整備局長)に任命されます。青山士と宮本武之輔。最強コンビが誕生しました。壊れた自在堰の代わりに可動堰をつくる補修工事は、しかし、困難をきわめる大仕事でした。
宮本は「信濃川補修工事の歌」を作詞し、工事中、皆で歌いました。
「此処は北越信濃川/流れも早き分水の/末はいづくぞ寺泊・・・」
竣工が間近に迫った大河津可動堰=土木学会附属土木図書館提供
補修工事の完成を控えた1930(昭和5)年、集中豪雨に見舞われた信濃川は急激に水位が上がりました。
宮本は、逡巡します。このままでは信濃川の水が下流域にあふれる。可動堰工事への水の進入を防ぐために設けた仮締切りを切るしかない。しかし切ると、工事は大幅に遅れる。
「仮締切りを切れ」
宮本は独断で切ったのです。下流域の人びとを守ることを優先した決断でした。後日、報告を受けた青山は「自分でも同じことをしただろう」と労ったそうです。
大河津分水可動堰が完成、技術官僚の最高位に
大河津分水可動堰の完成によって河川技術者として宮本の名は一気にあがります。技術官僚として出世街道をひた走り、国の政策を推進する機関の最高位・企画院次長にまで上り詰めました。当時の日本は、総合的な国の力を大きくしようとしていましたが、産業基盤となる社会資本整備はまだまだ乏しかったのです。だからこそ宮本は、土木技術者が腕を奮える体制づくりと、土木技術者の社会的地位の向上をめざしました。
宮本は、大河津分水補修工事の記録映画「補修の歌」を製作しています。脚色、監督、字幕は、内務技師・宮本武之輔。弁士も宮本自身。従業員や家族を集めて映画会を催したということです。「宮本武之輔を偲び顕彰する会」(松山市)では、文才に恵まれた工人(エンジニア)である宮本武之輔の足跡を明らかにすることによって、その偉業を偲び、広く世に伝えることを目的として活動しています。
越後平野を水害から守り続けて100年
当時、「東洋のパナマ運河」大事業とも呼ばれた大河津分水工事。2022(令和4)年、大河津分水は通水から100周年を迎えました。大河津分水は、100年間にわたって信濃川の洪水を海に流し続けて越後平野を水害から守ってきたのです。
信濃川大河津資料館(新潟県燕市五千石)では、大河津分水の歴史と技術をくわしく学ぶことができます。(理工図書顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長)=毎月第1木曜掲載