2022.06.01
西郷隆盛の子・菊次郎による台湾の治水 連載32 緒方英樹
台湾の宜蘭河に建つ「西郷庁憲徳政碑」
台北から高速道路で約30分、12・9㎞の雪山トンネルを抜けると、右手に温泉地として有名な礁渓(しょうけい)、左手には米どころである蘭陽平野。そこはすでに宜蘭(ぎらん)県です。
宜蘭は、台湾東北部の蘭陽平原中心部に位置し、海岸沿いまで山地が迫り、南北交通の要衝として発展してきました。景勝地として知られますが、比較的雨の多い地域でもあります。
宜蘭河にある堤防は西郷堤防と呼ばれ、その端に「西郷庁憲徳政碑」が建っています。そこには西郷菊次郎による徳政が刻まれています。1905(明治38)年、地域有志によって建立されたものです。
西郷菊次郎が、今も台湾の宜蘭で慕われているのはなぜでしょうか。
日本統治時代、宜蘭の民衆は初任郡守・西郷菊次郎の善政を記念して、宜蘭河右岸堤防に「西郷庁憲徳政碑」を建立した=筆者撮影
「西郷(せご)どんの子」としての波乱の人生
西郷菊次郎の父は、西郷隆盛です。
もともと隆盛は、郡方書役助という、いわば地域の農民を取り締まる役人でした。農民の窮状をつぶさに見て回り、農民の心に立って政治を考えていました。
そんな隆盛を拾ったのは、大河ドラマにも登場した篤姫を養女として、将軍家定の正室に送り込んだ第11代薩摩藩主・島津斉彬でした。隆盛は大抜擢の恩に報いるため、斉彬の手足となって尽くしたことで知られています。
隆盛にとって、そんな斉彬は神にも等しかったことでしょう。ところが、思いもよらぬ斉彬の急死。茫然自失した隆盛は殉死を決意します。かろうじて僧・月照に「斉彬の遺志を継ぐべきだ」と説得されて思いとどまります。
ところが、斉彬の死後、藩内事情は一変していきました。薩摩藩は幕府から危険人物と見なされた月照を見捨て、国外追放とします。藩は幕府との事なき関係を選んだのでしょうか。隆盛は憤り、絶望しました。もはやこれまでと、共に海中に身を投じますが、ひとり生き残ってしまいます。奇跡の生還。耐え難い恥辱にまみれたことでしょう。
当時、自殺は大罪でした。慌てた薩摩藩は、魂も抜け落ちた隆盛を奄美大島に蟄居させます。名前も菊池源吾と変えさせられました。
そして、隆盛は大島でかけがえのない出会いを得ます。沖縄と鹿児島のほぼ真ん中にある大島龍郷(たつごう)村(現・龍郷町)で、名門龍家の島娘・愛加那(あいかな)です。この2人の間に生まれた男子こそ、西郷菊次郎でした。
美しい南の島での暮らしは、隆盛の傷心を癒し、家族仲睦まじく過ぎました。しかし、薩摩藩は、いや時代は、西郷隆盛という風雲児を必要としていました。父が呼び戻されると菊次郎は西郷家に引き取られることになります。それは島の掟で母と永遠の別れを意味していました。菊次郎はその時、9歳でした。
菊次郎は、鹿児島、東京で勉学の後、13歳になると、北海道開拓使が派遣する留学生の一人として米国へ旅立ちます。英語と農業を修学するためでした。その監督として大鳥圭介の名があります。後の工部大学校校長、日本の殖産興業の近代化に大きく貢献した人物です。
そして17歳の時、菊次郎は西南の役に従軍します。士族による最大の内乱。薩摩軍を指揮するのは、征韓論に敗れ、政治の表舞台から鹿児島に下野していたカリスマ的リーダー・西郷隆盛でした。
米国から帰った菊次郎は、父・隆盛が、鹿児島の不平士族や若者たちのために設立した吉野開墾社で農業や勉学に励んでいました。やがて彼ら私学校が中心となった大勢力・薩軍は政府軍と壮絶な激戦を繰り広げることとなるのです。
菊次郎も前線の一兵卒として父と共に政府軍と対峙します。ところが、政府の最新火器の前にじりじりと後退、菊次郎は熊本城の激しい攻防のさなか、右足に被弾、膝下を切断して一命を取りとめます。
やがて田原坂の激闘を経て、宮崎に入った隆盛は全軍解散を宣言、菊次郎たち疾病者には官軍へ下るように命じます。そして、鹿児島の城山に籠もった薩軍は政府軍の総攻撃に遭い、最後の銃声は止みます。父・隆盛は自害。父と共に戦った17歳の夏は壮絶に終わったのです。
1861(万延2)年に生まれ、1928(昭和3)年に没した西郷菊次郎=さつま町宮之城歴史資料センター提供
民衆を水害から守る堤防の難工事を完遂
1895(明治28)年、台湾が日本領となって50年の間、後藤新平が進めた台湾近代化政策の道筋で、日本から選りすぐりの土木技術者たちが海を渡りました。一方、土木技師でもない西郷菊次郎が、誰よりも早く、八田技師の烏山頭ダム竣工の30年も前に、台湾で治水工事を行ったことはほとんど知られていないでしょう。
菊次郎が西南の役に従軍した後、台湾総督府に勤めたのは1895(明治28)年、まさに台湾が日本に割譲されたその年でした。同じ船で渡った初代台湾総督は、西南の役で熊本鎮台参謀長だった樺山資紀でした。
そして、台湾の東北部、宜蘭の庁長となった菊次郎は、台湾の民の生活様式や習慣を尊重しつつ、インフラ整備を行いました。その考え方は後藤新平や新渡戸稲造よりも先んじていたことに驚かされます。
そこで菊次郎は、宜蘭河の氾濫が長年、蘭陽平原の民衆を苦しめていることを知って、みずから動きます。
1897(明治30)年、菊次郎が宜蘭庁長(知事)として赴任した当時の台湾は、土匪(どひ=土着集団)の抵抗など政情が不安定で、宜蘭も例外ではありませんでした。さらに、雨期になると宜蘭河が氾濫して農民を苦しめていたのです。
菊次郎は、民衆の信頼を得る第一歩として、宜蘭河の治水を地域住民に説き続けます。地域を水害から守り、流域を灌漑して田畑を潤せば、乱れた人心も鎮まり、暮らしも豊かになると考えたのです。しかし、湿地帯に堤防を築くのは難工事です。巨額の費用もかかります。
執拗な熱情で台湾総督府を動かし、事業が着工したのは1900(明治33)年4月のことでした。延べ人数約8万人による工事は、モッコや天秤棒で土や石を運ぶ人海戦術で、杖をついて監督する菊次郎の姿に人々は心打たれたことでしょう。およそ1年半で竣工後、台風で決壊しないかと真夜中でも見に行ったという逸話も残っています。
この河川工事で洪水対策を施した菊次郎は、さらに灌漑による新田開発や道路整備をおこなって地域基盤を整えていきます。そして、菊次郎が約5年間尽力した後も工事は1926(大正15)年まで続けられ、この第2期工事で堤防の総延長は3740メートルに及びました。
宜蘭県の基礎を築いた初代庁長として語り継がれる西郷菊次郎の象徴・西郷堤防=筆者撮影
京都市長として3大事業を推進
宜蘭庁長を1902(明治35)年に退任した菊次郎は、その2年後、児玉源太郎の推薦で京都市長に就任します。菊次郎は、田辺朔郎が完成させた土木の金字塔・琵琶湖疏水事業の第二疏水の建設と、それを水源とした上水道建設、幹線道路を敷いて電気軌道を走らせるという3大事業を手がけ、昭和3年、波乱に満ちた68年の生涯を鹿児島で閉じました。
宜蘭河堤防の近くにある宜蘭設治記念館は、菊次郎が建てた日本家屋で、歴代地方長官の官邸です。元々、宜蘭旧城の南門地区に所在するその施設群は、旧農学校校長宿舎や旧宜蘭監獄事務室など新たな機能を吹き込まれた歴史空間として蘇っています。
〝日台の絆〟を示す貴重なモニュメントとも言えるでしょう。(理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長)=毎月第1木曜掲載