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2022.06.20

水害と地名の深~い関係 連載30 谷川彰英 渡良瀬川と谷中村 ~洪水によって運ばれた鉱毒~

「瀬」の付く川の豆知識

「瀬」という地名は深く水に結びついている。一般的には「川の浅く流れの速いところ」を「瀬」と呼んでいる。浅瀬とは言うが深瀬とは言わない。川中島で「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)」と夜河を渡ったのは、この「瀬」である。

もちろん川を構成しているのは「瀬」だけではない。「瀬」に対して水が滔々と流れている深いところを「淵」と呼んでいる。川はこの「瀬」と「淵」を繰り返しながら下流に向かっていく。

世の中には「瀬川さん」という人もいれば「川瀬さん」という人もいる。それだけ川瀬が人々の生活に結びついている証しである。「瀬」が川にちなむ地名だとすると、川の氾濫と無関係ではなくなってくる。

「瀬」がつく川は全国にいくつもあるが、代表的なものには栃木県の渡良瀬(わたらせ)川、青森県の奥入瀬(おいらせ)川、仙台市を流れる広瀬川、長野県安曇野市を流れる高瀬川などがあるが、これらはいずれも自然の川の「瀬」にちなむものである。ただし、京都市内を流れる高瀬川は人工的に開削されたもので、その高瀬は「高瀬舟」によるものだ。高瀬舟は古くは船底が深く「背が高かった(高背)」ところからこの名がついたという。これはちょっとした豆知識。

谷中村跡につくられた渡良瀬遊水地。足尾鉱毒を沈殿・無害化することを目的としていた

渡良瀬川の命名は日光開山の祖に由来

渡良瀬川は栃木県の日光市と群馬県沼田市の境にある皇海山(すかいさん)を源流とする全長107.6キロの利根川に注ぐ一級河川である。利根川の支流の中では鬼怒川、小貝川に次いで3番目の長さだが、流域面積では2621平方キロメートルと最大を誇っている。

現在は利根川の支流となっているが、昔は独立した川として江戸湾に注いでいた。家康は関東に入府して江戸の町を洪水から守るために、やはりそれまで江戸湾に注いでいた利根川を銚子方面に付け替えるよう伊奈忠次に命じた。この利根川の東遷と同時に渡良瀬川は利根川の支流となったのである。

 渡良瀬川という川の名前は、上流の足尾町(現・日光市足尾地区)にある「渡良瀬」という地名にちなむものだが、これは約1200年前に日光を開いた勝道上人が、浅瀬を渡って無事に対岸にたどり着けたところから命名されたと伝えられる。

足尾銅山の繁栄と洪水による鉱毒被害

 この渡良瀬川の上流に銅山が開かれたのは江戸時代初期、17世紀初頭のことであった。足尾銅山と名付けられたこの銅山は、幕府の全面的な支援を受けて、ピーク時には年間1200トンの生産量を上げたという。明治に入って民営化されるも政府の支援を受け、日本の資本主義の発展に大きく貢献することになる。最盛期の20世紀初頭には全国の銅の産出量の40%を占めたという。

 しかし、この銅山の繁栄の陰には「公害」の危機が忍び寄っていた。坑木や製煉の燃料のために森林を伐採したため、洪水が頻繁に起こり、渡良瀬川下流域はその都度大きな被害を受けた。渡良瀬川の場合、厄介なのは単なる水の氾濫ではなく、鉱毒が含まれていたことである。中でも1896(明治29)年の大洪水では、鉱毒被害は渡良瀬川・利根川・江戸川流域の1府5県に及んだ。 

鉱毒事件を明治天皇に直訴した田中正造と谷中村の廃村

足尾鉱毒事件の解決に命をかけた田中正造

 この足尾銅山鉱毒事件に命がけで立ち向かったのが、栃木県選出の衆議院議員の田中正造(1841~1913年)だった。田中は国会で繰り返し足尾銅山の廃坑を訴えるも受け入れられず、議員を辞職し、ついに1901(明治34)年12月、国会開会式の日に明治天皇へ直訴するという行動に出た。

この事件が引き金になって政府は対応を迫られたが、政府の出した策は渡良瀬川下流域に位置する「谷中(やなか)村」を廃村にして、そこに巨大な遊水地を造るというものだった。谷中村は渡良瀬川、思川(おもいがわ)、巴波川(うずまがわ)が合流する低地に位置し、古来重なる洪水に悩まされていたとはいえ、それなりに肥沃の地だった。

 その村を潰して鉱毒の壺のような遊水地を建設することに村人は激しく抵抗した。田中正造も谷中村に移住して抵抗したが、政府は1907(明治40)年、強制排除に踏み切り、谷中村は廃村に追い込まれた。3000人近くいた村人の多くは近隣の町村への移住を余儀なくされたが、中にはやむなく北海道へ渡る人々もいた。その跡地に造られたのが、現在の渡良瀬遊水地である。

カスリーン台風による未曾有の水害

川の氾濫、洪水で未曾有の被害をもたらした1947年のカスリーン台風

 渡良瀬川の戦後を象徴する洪水と言えば、1947(昭和22)年9月、関東地方を襲ったカスリーン(キャスリン)台風によるものだった。この台風は関東地方から東北地方にかけて記録的な被害をもたらした。死者1077名、行方不明者853名、浸水家屋38万4743戸という桁違いの被害を与えたことで、その名を歴史にとどめている。

 この台風による被害の特徴は、利根川水系の河川や荒川の堤防が至るところで決壊し、埼玉県東部と東京の足立区、葛飾区、江戸川区などの下町一帯まで浸水したことである。利根川の洪水がこれらのエリアを襲ったのは1910(明治43)年の大洪水以来のことだった。

 しかし、被害は利根川水系の北関東の方がはるかに激しく、群馬県で592名、栃木県で352名の死者を出している。また、利根川水系の死者・行方不明者1100名のうち709名が、渡良瀬川流域の被害者だとするデータもある。渡良瀬川恐るべし!である。