ソーシャルアクションラボ

2022.07.11

連載 水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 第33回 緒方英樹

夕張川の治水に生涯を捧げた  

~八田與一の学友・保原元二~

北海道開拓と夕張川の洪水

 1869(明治2)年、明治新政府は蝦夷の地を北海道と改め、農業、鉱工業などの新しい産業を興し、交通を整備する「開拓使」を設置しました。欧米の文化や技術を積極的に取り入れ、日本近代化のための資源開発が中央主導型で進められていきました。

札幌市厚別区にある「北海道開拓の村」の重要文化財「旧開拓使工業局庁舎」

夕張にも開拓のために多くの人々が移住してきました。ところが、開拓当初の夕張川・千歳川低平地一帯は、泥炭地で水はけが悪く、湿地が広がって居住や営農に適した環境とは言えませんでした。村の人々は雨が降ると半鐘を鳴らし、堤防に土俵を積んで備えていたということです。

春の融雪出水、夏の雨による洪水と、毎年のように洪水はん濫が起こり、川の水は堤防を越えることもありました。村の人々にとって水害の根絶は切実な願いだったのです。

 1882(明治15)年2月、開拓使が廃止となり、札幌、函館、根室の三県が置かれます。1886(明治19)年、政府は三県一局を廃止して北海道庁を設置します。北海道への移民が急激に増加して、明治20年代になると石狩平野への入植は全域に広がっていきました。

廣井勇教授の薫陶を受けた同期の2人

夕張川は、石狩川水系の一つで広大な流域面積を有しています。1898(明治31)年9月と1904(同37)年6、7月に洪水に見舞われました。前者の大洪水では、石狩川全流域で死亡被害者112名を出す惨状となりました。

そして、1910(明治43)年に第一期拓殖計画が策定され,石狩川の本格的な治水事業が始まります。この年の7月10日、東京帝国大学卒業式が明治天皇御臨場を仰いで厳かに行われました。工学部教授主任・廣井勇の薫陶を受けた卒業生31名の中に、八田與一(はった・よいち)と保原元二(ほばら・もとじ)の名前があります。

「技術者としての自分の力を常に錬磨して文明の基礎づくりに努力すべき」と学生たちに説いていた廣井教授は、小樽築港第一期工事によって日本の近代港湾建設技術を確立し、世界に高く評価されていました。

同大学を卒業したその年、八田は台湾総督府へ、保原は北海道庁に就職します。それぞれ師・廣井教授の勧めによるチャレンジでした。八田により建設された烏山頭(うさんとう)ダムは、2009(平成21)年、土木学会「選奨土木遺産」に認定されています。

保原が挑んだのは、夕張川の洪水でした。その下流域は大きく南へ蛇行して、現在の南幌町と長沼町の境を流れ、千歳川と合流していました。大雨が降ると水が引くまでに数日かかり、入植してきた移住者は悲鳴を上げていたのです。そうした住民の懇願もあって、北海道庁から派遣されたのが若き技術者・保原元二でした。

洪水の多い夕張川を石狩川に新水路でつないだ保原元二。その功績を称えた「なんぽろリバーサイド公園」内の胸像=南幌町役場提供

難工事を乗り越え、新水路「新夕張川」が完成

保原は、約40kmの旧夕張川の途中から約11kmの新水路「新夕張川」を引き、石狩川に直接流す工事を計画・指揮しました。途中、経済的な紆余曲折もあって順調に進まず、住民と保原は国に陳情を重ね、15年の歳月をかけて工事はようやく1936(昭和11)年に完成します。 

夕張川の掘削では、人力によって大量の土砂が運搬されました。新水路の開削にあたって、保原は次のように言っていたそうです。

「栗山の丘から北を眺めた時、遥か北に富士製紙工場の煙突が見えたのです。あの煙突を目標に石狩川本流への直線排水路を造るなら、今までの流路10里半を3里に縮小することができる」

 新水路完成後、地域の洪水被害は減少。農業用の大夕張ダムが1961(昭和36)年に完成すると、夕張川下流の農地は次第に潤っていきました。保原は、第5代石狩川事務所長、札幌治水事務所長を歴任し、夕張川治水事業(夕張川放水路)に一貫して計画と工事に取り組みました。

南幌町の7月1日は「治水感謝の日」

 夕張川放水路整備は地域住民に感謝され、現在でも地元の南幌町では7月1日に治水の感謝と殉職者を慰霊する「治水感謝式」が行われています。義経神社内に保原元二碑(胸像)が建立されました。その義経神社は、清幌橋架け替えに伴い、現在は南幌神社に合祀されています。なんぽろリバーサイド公園にある銅像近くの銘板には、次のように記されています。 

「暴れ川と呼ばれた夕張川は洪水のたびに千歳川低水地に氾濫を繰り返し、明治半ばの開拓移住民に大きな被害を与えた。夕張川新水路は大正11年着工し、昭和11年の通水によって、地域の繁栄と豊かな暮らしを築いた」

 また、長沼町でも毎年7月2日に「水祭り」が長沼神社で行われています。かつてこの地に、アイヌ語で「タンネトー」という沼があったということです。タンネトーとは和名で「細長き沼」という意味で、ここから「長沼」という地名が生まれたと言われています。保原元二の顕彰は、地元長沼の農業従事者たちによる町ぐるみで地道に進められています。

1936(昭和11)年に竣工した夕張川新水路は、石狩低平湿地を蛇行していた夕張川を直接石狩川へ合流させ、水害常襲地帯を穀倉地帯へ変貌させる礎となったショートカットです。2011(平成23)年度土木学会の「選奨土木遺産」に認定されました。

北海道夕張郡長沼町、空知郡南幌町、江別市に渡る1936(昭和11)年に竣工した夕張川新水路=選奨土木遺産委員会提供

廣井勇の門下生2人が、同じような時期に、南と北でそれぞれ治水事業に奮闘して、今でも地域に感謝されていることに胸を打たれます。

築港、橋梁学の権威である廣井勇は、学生たちに「自然を相手にする土木の仕事では、常に自分を磨きながら経験を重ね、文明の基礎づくりに努力するように」と諭したということです。民衆のために心身を賭して尽くす心は、時代や国境を越えて継承されていきました。(理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長)=毎月第1木曜掲載