ソーシャルアクションラボ

2022.07.21

水害と地名の深~い関係 赤城山が洪水によって流れてきた?! ~千葉県「流山市」~!

○市民も知らない「流れ山」の由来

 流山市は千葉県北西部に位置する比較的小さな都市である。市域から言うと35.32    平方キロメートルで、千葉県の市の中では5番目に狭い。東京都心部から20~30キロという位置にありながら都心からの直通の鉄道がなかったために、常磐線沿いに発展してきた松戸市や柏市に比べると開発の面では一歩遅れを取っていた。

 しかし、2005(平成17)年につくばエクスプレス(TX)が開通し、「南流山駅」「流山おおたかの森駅」が開設されたことによって、人口が著しく増加し、その増加率は全国でもトップを競っている。

 流山は江戸時代から味醂(みりん)の産地として知られ、その名は全国に知れ渡っていた。江戸川による舟運で栄え、明治初年に成立した葛飾県の県庁所在地になったこともある。町制を敷いたのは1889(明治22)年で、「流山市」になったのは戦後の1967(昭和42)年のことである。

 さて、この「流山」という地名は洪水に由来する地名である。このことを知る人は、千葉県下はおろか流山市民の中でも少ないに違いない。

 よくよく考えてみればわかることだが、「流れ山」なのだから、「山が流れてきた」という事実があったとしても不思議ではない。その謎を解き明かしてみよう。

<石段を上った先、高さ15メートルのこんもりとした山頂に赤城神社がある=流山市観光協会提供>

〇赤城山の一角が崩れて流れ着いた土地

 かつての中心地「流山」に行くには常磐線の「馬橋(まばし)駅」から出ている流山鉄道(正確には流鉄流山線)で向かうのがいい。「馬橋駅」と終着駅の「流山駅」を含めても、たった6つの駅でつながるローカル線だが、情緒たっぷりの20分だ。

 「流山駅」の1つ手前が「平和台駅」だが、この駅はかつて「赤城駅」だった。この「赤城」という地名こそ「流山」の謎を解く鍵だったのだが、1974(昭和49)年に周辺を開発した不動産屋の名前を取って「平和台駅」に変えたというのだからあきれる。

 駅から数分のところにこんもりとした山がある。これが「流山」のルーツとなった「赤城山」である。高さ15メートル、周囲は350メートルある。山頂には赤城神社が鎮座している。石段を上りつめたところに1814(文化11)年に建てられたという石碑に、建長年間(1249~56年)に上州赤城山(やま)の一角が崩れ、ここに流れ着いたとある。原文は次の通り。

赤城神社者上毛之鎮也生雲霧起風雨以祉福一圀建長中其山自燔土壌崩流離而客干下総即葛飾郡流山邨其地也…

 これだけの碑が残されている以上、単なる伝承で済ますわけにはいかない。800年近く前の凄まじい洪水によって、赤城山の一部もしくは赤城神社のお札などが流されてきたというのは信じていい話だろう。

〇舟運主流の時代、江戸川両岸は一体だった

 流山市の西側には江戸川が流れており、この江戸川の両岸一帯は古来、洪水常襲地帯として知られてきた。現在は関宿(現・野田市)地点に設けられた「関宿水門」で、利根川から江戸川へ落とす水量を調節しているので大きな洪水の被害は起きていないが、もともと江戸川は「太日川」(「おおいがわ」もしくは「ふといがわ」)と呼ばれ、かの暴れ川として知られる渡良瀬川の下流であったと言われている。それを考えれば、赤城山もしくは赤城神社が流れ着いたという話も信憑性を帯びてくる。

 もう一つ理解していてほしいことがある。今は江戸川の左岸の流山市は千葉県、右岸の三郷市、吉川市は埼玉県と、あたかも別の地区のように見えるが、鉄道が敷かれる明治半ばまでは江戸川の舟運で両岸は密接につながった同一エリアと言ってよかった。

 現在は河川が県や市町村の境界になっているところが多いが、舟運が主流だった100年余り前までは、人々は川に向き合って生活していた。これは河川問題を考える上の必須の知見である。とりわけ1890(明治23)年にオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルの尽力によって完成した利根運河によって、江戸川の役割は増していた。江戸川の両岸が同一だったことは、流山に葛飾県の県庁を置いたことでも理解できる。

<江戸川は茨城、埼玉、千葉、東京を流れる1級河川。その昔は度々洪水を引き起こした>

〇流山市に見当たらない「水塚」

 千葉県在住の郷土史家の調べたところによると、この江戸川流域の洪水常襲地域には「水塚(みづか)」という水難防止用の塚が存在していたという。「水塚」とは文字通り洪水時に避難するために築いた塚を意味するのだが、全国的には濃尾平野の輪中地帯の「水屋」がよく知られている。その調査によれば、三郷市には13個、吉川市には10個の水塚が確認されたが、流山市には確認できなかったという。

 流山市に確認できなかったこととして挙げている理由が面白い。流山では洪水が起きたら高台にある台地に避難すればよかったからだという。なるほどと思った。流山市は南北に長く、江戸川沿いと南部は低地だが、中部から北部にかけては15~20メートルの台地が続いている。この台地のお陰で歴史に残る1947(昭和22)年のカスリーン台風の際もほとんど被害がなかったという。

〇二度と神社を流さぬようにという古人の祈り

 「流山」という地名は洪水に由来することは疑いのないところだが、地名が洪水に由来するからと言って一律に危険視することは誤りだといういささかパラドクシカルな話である。

 赤城神社が鎮座する赤城山は流山の台地上にあり、山はさらにその上に15メートルの高さを誇る(?)、いかにも不自然な形状なのだ。この山は人工的に築かれたものであることは疑いようもなく、その山頂に鎮座している赤城神社には、二度と神社を流してはいけないという古人の祈りが込められている。(作家、筑波大名誉教授)=毎月第3木曜掲載