2022.08.19
連載第32回 水害と地名の深~い関係 谷川彰英(作家、筑波大名誉教授)
1本のポールの水害アラート ~東京海抜ゼロメートル地帯~
「水深0~4メートルの巨大な湖」に人口が密集
東京の下町・江東区の一角に忘れられた1本のポールがある。このポールの存在は、私が2012(平成24)年1月に出した『地名に隠された「東京津波」』(講談社+α新書)を執筆中に発見したもので、同書で紹介するまでは一部の関係者を除けば誰も知らない隠れた存在だった。
この本は、その前年の東日本大震災(3.11)の被害を目の当たりにして、「東京は大丈夫か」という問題意識で書いたものだが、その過程でこのポールの存在を知った。結論的に言えば、東京は水害や津波に極めて弱いということになるのだが、その危険性に警鐘を発してきたのがこのポールだった。
東京が危険だという最大の理由は、人口が密集した広大な海抜ゼロメートル地帯を抱えていることである。全国の主な海抜ゼロメートル地帯には次のようなものがある。
①愛知県…370平方キロメートル
②佐賀県…207平方キロメートル
③新潟県…183平方キロメートル
④東京都…124平方キロメートル
東京都は面積では4位だが、居住人口は150万人で他を圧倒している。東京都のゼロメートルは江東区、墨田区、江戸川区、葛飾区の広範囲にわたっている。最も低い地点は江東区の砂町(すなまち)地区でマイナス4メートルの地点がある。このゼロメートルは荒川沿いに広がっており、4つの区域のほぼ半分を占めている。
これをわかりやすく言うと、このゼロメートル地帯は水深0~4メートルの巨大な湖であり、周りは川や海で取り囲まれ、その堤防が水の流入を防いでいるおかげで通常の生活が営まれているということである。逆に言うと、その堤防が決壊すると、この地帯は何メートルもの水に浸かってしまうことを意味している。
もともとこの地帯は明治の頃までは水田が広がっていたところで、東京が発展拡大する中で、総武線、常磐線が敷かれ、水田が宅地化されて商業地域や工業地域として広がってきた。この地帯は地下水のくみ上げによって地盤沈下が続いた地域で、それを象徴するモニュメントが残されていることを紹介するのが今回の目的である。
かつて砂地だった「砂町」に建つ地盤沈下標識
モニュメントがあるのは江東区砂町。「砂町」は江戸時代に開発された「砂村新田」に由来するとされている。1659(万治2)年に相模国の砂村新四郎によって開発されたとされてきたが、その後、異説が出され、当地が海浜の砂地だったことによるなど定説はない。だが、この地が「砂地」であったことは事実で、そこから「砂村」という地名が生まれたことは間違いない。
地下鉄東西線の「南砂町駅」で降りると、駅前の道路は緩やかな坂道になっている。駅の標高はすでにマイナス1メートル。坂道を数分も下っていくと公園の脇に写真にあるような不可思議なポールが建っている。
このポールには7個のリングが取り付けられているが、それぞれに意味がある。地上1メートルの位置にあるリングが「干潮時海面」の高さ(深さ)を指している=写真内①。つまり、この地は干潮時の海面より1メートルも低いということになる。
②は「平均海面」の水位を、さらにその上の③は「満潮時海面」の水位を指している。つまり、この地は満潮時にはマイナス3メートルの低地と化すことになる。
そのすぐ上の④は1918(大正7)年の地盤表記で、言い換えればこの地は100年で3メートル以上の地盤沈下を引き起こしたことになる。そのさらに1メートルほど高い位置にある⑤は、1949(昭和24)年の台風による高潮の高さ、それからさらに1メートルほど高い⑥は、1917(大正6)年の台風による高潮の高さを示している。
そして、最も高い地点、およそ7メートルのところに位置する⑦は、現在の堤防の高さを示している。言い換えれば、荒川の堤防が決壊すれば、この地点まで水に浸かる可能性があるということである。
東京沈没の最悪のシナリオとは
この海抜ゼロメートルを例えて言えば、東京都が抱える爆弾のような存在である。災害に備えるためには100年に1度起きるか起きないかの最悪の事態を想定しておく必要がある。
仮に関東地方に台風による大雨が降ったとしよう。荒川、江戸川などの河川が危険水域に達したとする。時は満潮時。台風による高潮も発生している━━。その時、首都圏を地震が襲ったとする。高潮に加えて津波が発生する。現在の臨海部の防潮堤の高さは3~4メートルなので、海水は軽々と乗り越えてゼロメートル地帯になだれ込む。さらに怖いのは、高潮と津波による河川の遡上である。これによって荒川の堤防を容易に水は越えていく。
そして最悪のシナリオは、地震で河川の堤防が切れるという想定である。堤防が1か所でも切れれば、ゼロメートル地帯は一瞬にして巨大な湖と化すことになる。
私の想定した最悪の事態とは以上のようなものだが、忘れてならないのは、こういう事態を招く確率は「ゼロではない」ということだ。
このような危険な地域になぜ人が住むようになったのか。その地質学的な背景と歴史的経緯については次回に述べることにする。(作家、筑波大名誉教授)=毎月第3木曜掲載