ソーシャルアクションラボ

2022.09.13

水害と地名の深~い関係 なぜ海抜ゼロメートル地帯に人は居住するようになったか 連載33回 谷川彰英 

水に関する2つの原理

 台風が接近するこの時期になると連日のように、「暴風、川の増水、低い土地の浸水にご注意ください」とテレビのニュースで警告を発している。暴風を別にすれば、「川の増水」と「低い土地の浸水」が人々の安全を脅かす元凶であることは言うまでもない。ただ、この現象は水に関する極めて単純な2つの原理によって引き起こされていることに注意する必要がある。その2つの原理とは次のようなものである。

  • 水は高きから低きに流れる
  • 水は許容量を超えるとあふれる

 人をバカにするなとお叱りを受けそうだが、水害は間違いなくこの2つの原理によって引き起こされている。例外はない。①から言えるのは、「低い土地の浸水」であり、②から言えるのは「河川の氾濫」であり「土砂崩れ」や「鉄砲水」である。 そういう見地に立つと、東京の海抜ゼロメートル地帯など人が住んではいけない最も危険なエリアだということになる。だが、そんなに単純に割り切れないのが世の中である。

日暮里駅の北側に出ると武蔵野台地の東縁(写真左)が見られる=2022年9月、東京都荒川区西日暮里3丁目

「山の手」と「下町」の境にある武蔵野台地

 東京の町は「山の手」と「下町」から成っており、両者を無数の「坂」が結んでいる。山の手と下町の境を象徴するのはJR京浜東北線である。北は王寺駅あたりから南は上野駅あたりに至るまで、電車は西側に連なる台地の崖に沿って走る。

 この西側に連なる台地が武蔵野台地の東縁に当たる。日暮里駅の北口で降りて北側を見ると左側に20~30メートルの高さの崖が続いている。これが武蔵野台地の東縁なのだ。この一帯の台地は江戸時代から「日暮らしの里」と呼ばれ、江戸の名所の一つだった。

 駅から台地を北に10分ほど歩を進めると諏方神社がある。その境内から東を眺めると今はビルが林立して先は見えないが、江戸時代には一面の水田の向こうに千葉県の国府台(こうのだい)が遠望され、その先には筑波山を望むことができた。 この一幅の絵から東京の水害を予知することができる。

歌川広重の『名所江戸百景 日暮里諏訪の台』。諏方神社がある高台は眺望の良さで知
られた。遠くにかつて望むことができた筑波山(右)、日光連山(左)が描かれている=荒川区立荒川ふるさと文化館画像提供
現在の諏訪神社からの眺め。軌道の先にビルが林立する=2022年9月

水害の危険にさらされる、台地に囲まれた三角状の低地

 海抜ゼロメートル地帯を含むこの広大なエリアは、西に武蔵野台地、東に下総台地、北の大宮台地に囲まれた三角状の低地である。ここに旧利根川、旧渡良瀬川(現在の江戸川)、荒川などの河川が流れ込むので、水害による被害は予想を超えたものであった。

 武蔵野台地も下総台地も大宮台地も「洪積台地」で、約1~2万年前までに形成された土地で地盤は固く、さらに高台になっているために水害の心配はない。一方、河川の周辺の低地は「沖積平野」と呼ばれるもので、それ以降に形成されたものである。河川が運ぶ土砂の堆積による土地のために地盤は弱く、常に水害の可能性にさらされている。

 2万年前の氷河期には、大陸に氷河が発達したために海面は現在より130メートルも低く、海岸線は今の浦賀当たりだったと推定されている。その頃は、東京湾は存在していなかった。ところが氷河期が終わると、地球温暖化によって海面は次第に上昇し、縄文後期(数千年前~)に入ると海面はぐんぐんと上がり、現在の海面より標高差にして数メートルから10メートルも高かった。これが「縄文海進」という現象だが、その結果、東京の下町は現在の日比谷や銀座を含めて完全に海面下に沈むことになった。東京都だけでなく、東京湾沿岸の低地は海面下に没していた。北は浦和あたりまで海で、「浦和」という海にちなんだ地名が残っているのはそのためとも言われている。

武蔵国と下総国の境、隅田川に架かる両国橋

 そもそもこの海抜ゼロメートル地帯は江戸の町とは無縁な存在であった。

 1657(明暦3)年、江戸は史上初ともいうべき大火に見舞われた。いわゆる「明暦の大火」だが、この大火によって江戸城は炎上。およそ10万人が犠牲になった。10万人規模の災害は1923(大正12)年9月の関東大震災と1945(昭和20)年3月の東京大空襲のそれに匹敵するものだが、当時の江戸の人口が100万人規模であったことを考えると、明暦の大火はまさに未曽有の災害であった。

 これだけの被害をもたらした最大の原因は、隅田川に橋が架けられていなかったことにある。逃げ惑う人々は隅田川を渡り切れずに折り重なるようにして命を落としたという。もともと幕府は江戸を護る軍事的目的で、江戸周辺の河川に架橋することを許さなかったのだが、これだけの被害に直面して隅田川に架橋することにした。

 両国橋が架橋されたのは1659(万治2)年とも1661(寛文元)年とも言われるが、直接的なきっかけは明暦の大火であった。その名前を「両国橋」と名付けたが、その「両国」とは「武蔵国」と「下総国」を指していた。ということは、両国橋は文字通り武蔵国と下総国をつなぐ架け橋になったということである。

 両国の境になったのは隅田川で、要するに隅田川の西は武蔵国、東が下総国だったということである。近年の研究で境界は現在の墨田川ではなく、墨田区の本所、江東区の深川などは武蔵国に属していたという指摘がなされているが、隅田川水系が両国の境界であったことは疑いないところである。

江戸の台所を支えた「下町」エリア

 現在の江東区、墨田区、江戸川区、葛飾区に広がるエリアが武蔵国に編入されたのは寛永年間(1624~1645年)と言われているが、あえて編入したのは、このエリアが幕府にとって重要であったことを意味している。現在の交通感覚では理解しにくいことだが、当時の物資の輸送はもっぱら舟運に頼っていたことを知れば、その理由は理解されよう。

 江戸の中心である日本橋周辺には、日本橋のたもとに造られた魚河岸をはじめ、青物河岸、米河岸、材木河岸、塩河岸などが集中し、いわば江戸経済の大車輪の役割を果たしていた。北前船で運ばれる米は銚子で高瀬舟に積み替えられて、利根川を遡上して関宿で渡良瀬川(現在の江戸川)を下って、江戸湾に出て日本橋に運ばれた。また、関東地方で唯一塩を生産した行徳塩田(千葉県市川市)から日本橋まで一直線に運河(小名木川)を開削して塩を運ぶなど、江戸の台所を支えてきたのはこのエリアである。

 江戸の町は武家地と寺社地と町人地に分けて整備されたが、江戸経済の中心であった日本橋周辺を支えたのは、武蔵国に編入された現在の都内「下町」エリアであった。このエリアは江戸前期に新田開発されて米の産地であったと同時に、点在する農村では野菜も豊富に栽培されていた。小松川(江戸川区)流域で生産された「小松菜」は今もその名を伝えている。

コロナ禍に通じる「水害リスクと社会経済活動」

 明治に入ってこのエリアはさらに躍動する。1871(明治4)年の廃藩置県によって東京府に編入され、東京の東部地区として開発が進められることになる。1896(明治29)年の日本鉄道(現在の常磐線)に続いて、1904(明治37)年に両国駅を起点とする総武鉄道(現在の総武線)が開通したことによって沿線の宅地化が進み、さらに各種の工場が進出。それに伴って商業地域も広がって今日に至っている。

 海抜ゼロメートル地帯は、地質学的な背景をたどれば水害の危険性の最も高い地域だが、他方で社会経済の観点から見るとそれなりの合理性があったと言ってよい。

 それは期せずして、今日の新型コロナウイルス感染をめぐる状況と極めて似ている。コロナ感染のリスクを抑えるには全面的に外出を禁止すればいいのだろうが、それでは社会経済活動は回らない。それと同じ論理で、水害のリスクを抱えながらも「そこ」に住む、住まざるを得ない事情を理解するべきである。 行政の役割は人々の生命と安全を守るための条件整備を行うことである。

谷川彰英(たにかわ・あきひで) 作家、筑波大名誉教授