2022.10.21
水害と地名の深~い関係 天才作家と相次いだ水害大阪・高槻市の「芥川」に学ぶ 連載34回 谷川彰英
「芥川」なんて川があったの?
「水害と地名の深~い関係」という連載でいきなり「芥川」などというと、多くの読者は面食らうに違いない。芥川というと日本人なら誰でも知っている、かの天才作家「芥川龍之介」を想起し、芥川などという川がこの世に実在することを知らないからである。芥川龍之介の「芥川」は同名の河川名に由来すると聞いただけで、「へぇー!?」と思うに違いない。
芥川龍之介の作品は、その幾つかを国語の教科書で学んでいるし、長男の芥川比呂志は俳優・演出家として、三男の芥川也寸志は作曲家として知られ、名門の名前をほしいままにしてきた。ところが、この名門の「芥川家」がなぜか水害に関連しているという。
その謎を解いてみよう。
大阪府高槻市を流れる淀川水系の一級河川
「芥川」もよく災害地名として取り上げられる地名である。「芥」とは「ごみ、くず、塵(ちり)」(『岩波国語辞典』)を意味するので、「芥川」は文字通り「ゴミやくずのたまる川」という意味になる。ゴミやくずは水に流されて川の底流地にたまるので、水害のリスクが高いという理屈である。後で述べるように芥川で洪水が起きているのは事実だが、洪水を引き起こすのは地名のみではなく、降水量が決定的な要因であることを忘れてはならない。どんな河川でも一定の許容量を超えた降水量があれば氾濫する。それが自然の摂理である。
わが国には次の「芥川」が確認されている。
・三重県鈴鹿市を流れる鈴鹿川水系の一級河川
・主に大阪府高槻市を流れる淀川水系の一級河川
・愛媛県宇和島市を流れる四万十川水系告森川(こつもりがわ)支流の一級河川
このうち全国的に最も知られているのは高槻市の芥川である。高槻市には芥川町(あくたがわちょう)という町名もあり、狭義の西国海道(京都から山崎を経て西宮で中国街道と交わるまでの約64キロの脇街道)六宿の一つ「芥川宿」として栄えたことでも知られる。
芥川は大阪府と京都府の府境界にある摂丹山地を源流として、高槻市を南流して淀川に注ぐ全長25キロという比較的小さな河川である。上流は高槻市民の桜の名所、ハイキングコースとして知られる摂津峡。高槻市を北から南に流れ、女瀬川(にょぜがわ)と合流してからは天井川となって淀川に注いでいる。
人柱になったと語り継がれる上等兵の殉職
芥川はこれまで1935(昭和10)年、1953(昭和28)年、1967(昭和42)年の3回にわたって決壊している。1935(昭和10)年6月28日から29日にかけての豪雨は記録的なもので、1時間当たりの降水量は100ミリに達したという。
29日未明2時頃、阿久刀(あくと)神社の脇を流れる芥川は氾濫直前となり、消防団の対応では間に合わず、陸軍工兵第4隊に出動を要請。しかし、この作業中、上等兵の北野小一郎さんが濁流に呑みこまれて殉職。その直後、上流の堤防が決壊したことにより神社一帯は洪水の難を逃れ、人々は北野上等兵が人柱になってくれたお陰と涙ながらに語り伝えたという。時の高槻町長の磯村弥右衛門氏が慰霊顕彰碑を建て、今でも真上門前橋の近くの桜堤に残されている。
また1953(昭和28)年には9月の台風13号によって芥川右岸が女瀬川との合流地点で堤防が決壊し、富田町、三箇牧村、味生村(現在の摂津市別府の一津屋一帯)の約1700ヘクタールが浸水したという。
「水勢の趨(おもむ)く所を順にするのみ」の教訓
高槻市にはもう一つ忘れてはならない淀川洪水にまつわる碑がある。
高槻市の南部は淀川に沿った低地で、古くから淀川の洪水に悩まされてきた地域である。高槻市唐崎と三島江の堤防上に淀川洪水にまつわる碑が二つ並んで建っている。一つは1868(慶応4)年の淀川決壊に際して築堤完了の記念碑、もう一つは1885(明治18)年の淀川決壊に際して修堤工事完了記念碑である。
その「修堤碑」には土屋鳳洲による次のような碑文が刻まれている。
「治水にもと奇策なし。地勢を相(み)、堤防を謹しみ、水勢の趨(おもむ)く所を順にするのみ」
実に見事な碑文である。「治水にはもともと特別な策などない。地勢を見、堤防を大切にし、水勢の赴く順に対応するしかない」。現代にも通じる教訓を伝えている。
「芥川氏」のルーツは高槻にあり
最後に、芥川龍之介(1892~1927年)との関連について述べておく。
龍之介は1892(明治25)年、東京府東京市京橋区入船町8丁目(現在の中央区明石町)に、牛乳製造販売業を営む新原敬三とフクの間の長男として生まれた。生後7か月で母フクが病のためフクの長兄の芥川道章に引き取られ、13歳の時、芥川家の養子となった。
芥川家は士族であり、江戸時代は代々幕府の奥坊主を務めた由緒ある名家であり、芸術や演劇を愛好する家系であった。
さて、この「芥川氏」のルーツは高槻市の芥川一帯だと言われている。名字研究家の森岡浩氏によれば、「芥川氏は高槻市の地名がルーツで桓武平氏の一族。芥河とも書いた。鎌倉時代から幕府の御家人として活躍し、室町時代には摂津を代表する国人だった。現在も府内一帯に広がっている」(『47都道府県・名字百科』丸善出版)とされる。
高槻市の芥川の「芥」の由来は阿久刀神社の「阿久刀」だとされている。阿久刀神社は平安期に編纂された『延喜式』に、いわゆる式内社として記されている古社で、それを考えると高槻市の芥川は単なる「ゴミやくずのたまる危険な川」ではなかったと考えられる。
地名にはそれぞれ多様な歴史があり、従って一方的に災害地名のレッテルを貼るのは正しいとは言えない。