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2022.11.03

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載37回 円山川と3人の治水の神様~土木の聖地・豊岡からの発信~ 緒方英樹

泥海だった豊岡盆地と円山川の水害

 円山川(まるやまがわ)は兵庫県北東部を流れる一級水系の本流で、むかし、その源流が朝来市生野町の円山(丸山)という小山にあったことから朝来川(あさごがわ)とも呼ばれています。今は熊野神社付近が源流です。豊岡盆地が泥海だったころ、人々は毎年のように洪水に苦しめられていたそうです。

空から見た円山川の出石川との合流点。円山川は江戸、明治、大正、昭和と水害に見舞われ、最近では2004(平成16)年の台風23号による洪水で円山川、出石川の堤防が決壊し、流域に大きな被害をもたらした=国土交通省近畿地方整備局豊岡河川国道事務所提供

 豊岡市は2005(平成17)年4月1日、兵庫県の北東部に位置する1市5町(豊岡市、城崎町、竹野町、日高町、出石町、但東町)が合併してできたまちです。貝塚や縄文遺跡が見つかり、旧石器時代から人々が住み着いていたと推測される豊岡盆地の歴史には、台風、梅雨前線、秋雨前線などによる水害の惨禍がいくたびも刻まれています。

 円山川の歴史は、古代から続く治水との闘いの歴史でもありました。

6世紀に朝鮮半島から渡来した王子による治水工事の伝説

 そうした風土を持つ豊岡には3人の土木の神様がいると言われています。

 今から約1500年前の6世紀、朝鮮半島の新羅の王子様であった天日槍命(アメノヒボコノミコト)が但馬の国にやってきて、円山川河口をふさいでいた大岩を切り開いて、溜まっていた泥水を海に流したという大規模な治水工事の伝説があります。

アメノヒボコは村人と協力して泥水を日本海に流す工事を行い、泥海は農業のできる土地に生まれ変わったと伝わる=天日槍命石引きの図(出石神社蔵)

 この伝説の主人公・アメノヒボコは、日本書紀や古事記にも登場する神話の神で、「国づくりの神様」として豊岡市出石町宮内の出石(いずし)神社にまつられています。

 山陰有数の大社である出石神社で先祖代々宮司をされている長尾家典氏にお話をうかがうと、「天日槍命が日本海側から但馬の国(現在の出石)に上陸されたことが古事記に残されている」と言われ、16世紀に記された『勧進状』を見せていただくと、天日槍命の但馬開発につながる記述も見受けられました。

但馬開発の祖にして国つくりの神様、土木の神様としてのアメノヒボコを祀る出石神社=長尾家典宮司(左)と筆者

河川と港湾工事に尽力した治水の神様・沖野忠雄

 沖野忠雄は、土木学会初代会長の古市公威(ふるいち・こうい)と同じ年、1854(安政元)年、但馬の豊岡藩士の子として兵庫県豊岡市大磯に生まれました。

 豊岡藩費で東京大学に進んだ沖野は、古市より1年後に第2回留学生としてフランスのエコール・サントラルに入学、1879(明治12)年に土木建築科を卒業しました。当時のフランスは、内陸河川の改修、運河の建設が進み、橋梁や河川技術では欧州の中心的な場所であり、沖野はそうした学問と実践を学んだのです。

 沖野は帰国後、内務省土木技師となって淀川と大阪港の工事に携わります。当時の淀川は、オランダ人技術者たちから、水害のたびに土砂が流れて河口の大阪港を埋めていることが指摘されていました。沖野は、当時最先端の機械を西欧から取り寄せて工事の能率化を図りました。大型掘削機、機関車、浚渫船、起重機船といった先端機械の修理のための機械工場も設けます。また、防波堤に用いるコンクリートの製造はまだ確立されていなかったので、沖野はフランスから持ち帰った資料を頼りにセメント試験所でテストを繰り返しました。

 そして、1905(明治38)年、大坂築港工事はほぼ完成します。内務省技監として歴代大臣の信任も厚かった沖野の果たした役割は、外国人技術者に頼ることなく、近代的な河川と港湾技術を日本に定着させたことにあるでしょう。沖野が関わった河川や港は、全国各所に及びました。沖野の土木技術者としての使命感は、全国レベルでリスクの高い河川を優先して改修しましたので、故郷の円山川改修に着手したのは退官後になっていました。

 沖野は、1864(元治元)年、1866(慶応2)年、1870(明治3)年と3回の大洪水を経験しています。幼少期から豊岡で自然災害の災禍に苦しむ住民を見て育ったことが、治水の道を選択させたと考えられ、私情をはさまぬ高潔な沖野の功績が地元のみならず見直されています。出石神社の境内には沖野忠雄の石碑が、また、出石川防災センターにはその功績を称えたパネルが展示されています。

出石神社境内に建つ出石町出身の「治水の神様」沖野忠雄の石碑

新渡戸稲造の訓示で志した砂防の神様・赤木正雄

 近代の砂防は赤木正雄から始まったと言えるでしょう。

 赤木は、1887(明治20)年、兵庫県豊岡市引野に生まれました。赤木の生家には軒先に避難用の舟が吊るしてあったといいます。近くを流れる円山川は氾濫の常襲地だったので、沖野と同様に、洪水の恐ろしさは小さな頃から心に刻み込まれていました。

 赤木が第一高等学校の生徒であった当時、一高校長だった新渡戸稲造の訓辞が彼に影響を与えました。

 「わが国はたびたびの水害で多くの命を失い、家を流し、耕宅地を荒し莫大な被害を受ける。治水はきわめて地味な働きだが、誰か諸君のうち一人でも一生を治水に捧げて、毎年襲来するこの水害をなくすことに志を立てる者はいないか」という話に感激して砂防を志したと、赤木の自伝『砂防一路』の冒頭にあります。

 富山県の立山砂防工事事務所の初代所長として立山砂防に挑んだ赤木は、富山市内から徒歩で立山の上流部を調査、約1カ月間のほとんど毎日、立山カルデラの出口にある白岩砂防堰堤予定カ所の調査を行い、白岩砂防堰堤を基幹として常願寺川全般の砂防計画を立てました。その後、優れた技術者たちによって、常願寺川の上流から河口に至る砂防と治水事業によって、立山カルデラ砂防施設群の価値が世界的に評価されるに至っています。

「円山川第一期改修工事」にも力を入れた「砂防の神様」赤木正雄の銅像(豊岡市塩津町)

 11月18日は土木学会が定めた「土木の日」です。

 人類は長い歴史の中で英知と技術を結集して水を治めてきましたが、円山川水系でも、安全に流れる水の量を毎秒4600立方メートルにして、途中で毎秒300立方メートルを一時的にためる「川をおとなしくさせるための工事」が現在も進められています。                         

※理工図書(https://www.rikohtosho.co.jp/)から、当連載にも関連した緒方英樹氏の新著『大地を拓く』が刊行されました。

緒方英樹(おがた・ひでき) 理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長