ソーシャルアクションラボ

2022.11.17

水害と地名の深~い関係 長良川の告白――岐阜市の80%が浸水した! 連載35回 谷川彰英(作家、筑波大名誉教授) 

 「長良川の告白」とは言っても、もちろん川が「告白」などするわけもない。長良川にかこつけて私が告白するという意味である。

 10月28、29の両日、私は岐阜市にいた。「都ホテル岐阜長良川」からは眼下を流れる長良川が手に取るように見え、その先に養老山地の山々が遠望できた。私にとってこの光景は特別な意味を持っていた。実は今度の岐阜行きは、私にとって4年ぶりの外出だったのだ。この4年間、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)との闘病に加えてコロナのために一歩も外出できなかったからである。

「岐阜のおもしろ地名ってナンヤローネ!」をテーマに講演

 そんな中、岐阜まで出かけたのは、あるイベントに参加するためだった。10月28~30日の3日間、岐阜市で「エンジン01文化戦略会議」のオープンカレッジin岐阜が開催された。エンジン01とは文化の醸成に携わる表現者・思考者の団体で、私もその一員である。

 オープンカレッジのハイライトは2日目に開催される市民向けの講座である。様々なテーマで100以上の講座が設けられるが、この10数年、私は主に地名講座を主宰してきた。開催県の地名の由来などを考える講座だが、今回のテーマは「知ってびっくり!岐阜のおもしろ地名ってナンヤローネ」。その下調べの段階で、「日置江」という地名の存在を知った。「ひきえ」と読む。岐阜県の難読地名の一つに数えられているが、この地名が昔岐阜を襲った水害を思い起こさせてくれた。

4年ぶりの外出で岐阜のおもしろ地名講座を担当した筆者(右から2人目)=2022年10月、エンジン01文化戦略会議のオープンカレッジin岐阜で

岐阜市南端に位置する「日置江」の由来

 岐阜市は1998(平成10)年に設定された住宅マスタープランによれば、「中央部」「北東部」「北西部」「南東部」「南西部」の5つの地域区分から成っている。「日置江」は南西部で、2006(平成18)年に柳津町(やないづちょう)が岐阜市に合併されるまでは岐阜市でも最南端に位置していた。

 西側には長良川が流れ、古来長良川の氾濫による水害に悩まされてきた地域である。地名の由来は「低い江」だと言われているが、「引き江」ではなかったかと私は考えている。溢れた水を惹き込む土地ではなかったかということだ。

 日置江地区は江戸時代末期には厚見郡に所属し、加納藩領であった。1889(明治22)年の市制町村制によって日置江村が成立し、さらに1897(明治30)年、日置江村、茶屋新田、次木(なめき)村、高河原村が合併されて新生日置江村が誕生した。そして、1958(昭和33)年、岐阜市に合併されて今日に至っている。

 長良川は四万十川、柿田川と並んで「日本三大清流」の一つに数えられている。「長良川慕情」に謡われ鵜飼で知られた長良川━━。個人的には長良川鉄道に揺られながら郡上に取材に行った時の長良川のせせらぎの美しさが忘れられない。

岐阜市を襲う4日続いた豪雨の大洪水被害

 だが、こんな長良川でも洪水となると恐ろしい形相を見せることになる。長良川流域の洪水と言えば、1976(昭和51)年9月12日に長良川の堤防の決壊によって安八町(あんぱちちょう)と旧墨俣町(すのまたちょう=現大垣市)全域が水没した、いわゆる「安八水害」が有名だが、岐阜市に限ってみると、それ以前に市域の80%が浸水するというとんでもない災害を引き起こしている。

 中京一帯は1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたのを皮切りに、翌1960(昭和35)年、1961(昭和36)年と3年続けて大洪水の被害を受けている。中でも61年の洪水は、岐阜市域の80%が浸水したというのだから特筆すべき惨事と言ってよかった。

1959年の伊勢湾台風で岐阜市住宅街は一面水浸しに=岐阜市長良橋付近で

 1961年6月、梅雨前線による豪雨が岐阜市を襲った。6月24日から27日まで豪雨は続き、6月中の実測降雨量は789ミリに達し、これは平年値の降雨量(254.4ミリ)の3倍以上に及ぶもので、それだけで災害の凄さを予測させる。

 この豪雨によって岐阜市の芥見(あくたみ)と加野地区では3年連続で堤防の決壊による被害を受けた。また、岐阜市のシンボル的存在である長良橋付近でも濁水が越流し、周辺は濁流に呑みこまれたと言う。

 長良川に注ぎ込む鳥羽川、伊自良(いじら)川、板屋川なども逆流し(いわゆるバックウォーター現象)、濁流は市の南部を中心に埋め尽くした。それは岐阜市の市域の80%に及ぶというのだから驚く。特に岐阜市南部の論田(ろんでん)川、荒田川、境川下流部、岐阜市西隣の天王川下流域では浸水期間が1週間以上に及んだという。

 日置江は言うまでもなく、三里、鶉(うずら)などのほかに、交人(ましと)、折立、黒野地区に至るまで被害は広がった。

1961年6月の集中豪雨による洪水被害。赤茶けた水が岐阜市の大半を覆った。床上浸水約1800戸、床下浸水約7千戸は1959年の伊勢湾台風の2倍を超える被害に

秋晴れの青空を仰ぎ見て「地球の上に生きている!」と実感

 オープンカレッジの会場となった岐阜大学のキャンパスから、4年ぶりに雲一つない秋晴れの大空を仰ぐことができた。これまで病室と自宅の天井しか見てこなかった私がまず思ったのは、「自分は地球の上に生きている!」ということだった。それは広がる青空からの密かなプレゼントのように思えた。

 この地球上に人類は文明を築いてきたが、それには水が不可欠だった。水は人類に豊かな恵みを与えてきたが、他方では築いてきた文明を一瞬にして呑む込む一面も有している。そんな矛盾の上に私たちの「生」は成り立っているのだな━━。長良川の清流を見ながらそう思った。

谷川彰英(たにかわ・あきひで) 作家、筑波大名誉教授