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2023.01.05

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載39回 戦国の土木力が江戸・東京の基礎を築いた~そこはズブズブの湿地帯!どうする家康さん~ 緒方英樹

家康は天正18年の入国前から上水道や江戸城下町の都市基盤整備に着手していた=土木学会発行の「土木偉人かるた」(作画・広野りお)より

かつて利根川は東京湾に注いでいた

 千葉県の東部、利根川の近くに鎮座する香取神宮は、神武天皇の御代18(紀元前643)年創建と伝えられるわが国屈指の名社です。古代から江戸時代前までは、神宮の目前まで香取海(かとりのうみ)と呼ばれる内海が広がっていたと「常陸国風土記」などに記されています。

 古来、利根川下流は海が陸地に入り込んだ入り江だったようです。現在は霞ケ浦や印旛沼などを残してほとんどが埋め立てられてしまいました。

東京湾に流れ込んでいた1000年前の利根川を示す図=国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所提供
東京湾に流れ込んでいた1000年前の利根川を示す図=国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所提供

 広大な内海だった香取海は、東北地方および常陸国と他地域との間の物流経路を担っていたため、平安時代にはそれを奪い合う「平将門の乱」などが繰り広げられていました。

 水上交通が活発化した鎌倉時代になると、香取海に流れ込む河川を通じて、東京湾との交流も盛んになってきます。

そして、徳川家康が江戸に入った天正18(1590)年、利根川は関東平野を乱れながら南へ下り、荒川や入間川と合流して東京湾に注いでいました。そのため、大湿地帯となっていた江戸は、たえず洪水の危機にさらされていました。

家康が入城したとき、そこは一面の湿地帯だった

 江戸の「江」は水が陸地に入り込んだ入江、「戸」は出入口の場所といった意味から、江戸とは「江の入り口」とする説があります。入江の東側には半島状の江戸前島が海に突き出ていました。家康入府前の江戸湊は、江戸前島の西側に日比谷の入江という湾が近くまで入り込み、東側には旧石神井川の河口部があったと考えられます。

 当時、家康と家臣たちが入城して目にした景色は、入り江と池が入り組んだ低湿地に、遠く葦(あし)の原が広がっていたことでしょう。拠点となる江戸城を整備する以前の問題として、江戸の都市計画をおこなう下地を持っていなかったのです。

家康は天正18年の入国前から上水道や江戸城下町の都市基盤整備に着手していた=土木学会発行の「土木偉人かるた」(作画・広野りお)より
家康は天正18年の入国前から上水道や江戸城下町の都市基盤整備に着手していた=土木学会発行の「土木偉人かるた」(作画・広野りお)より

江戸の再生は「水の道」づくりから

 平安時代末期に江戸氏が開発したとされる江戸湊に太田道灌が江戸城を築いた長禄元(1457)年には、交通要衝の地として発展していたという見方もあります。その1世紀後、江戸に入った家康は、東海道、甲州道中、奥州道中の主要陸路を集約した江戸の立地を選びますが、時を経た江戸湊は廃れていました。

 征夷大将軍となって江戸幕府を開いた家康は、江戸を中心とした交通網の整備に取りかかります。江戸城へモノを運び込む水路(運河)づくり、すなわち、舟運ネットワーク形成のための基盤となる水の道づくりを江戸入府時から進めました。

家康は、戦国時代に培われた土木事業によって徳川幕府の本拠とする江戸の改造に着手します。その骨格となったのは、江戸城を中心に濠と河川と運河を連環させた水の道づくりでした。東国の湿地帯を、水の道づくりでダイナミックに再生させる都市プランです。

 また、日比谷入江に流れ込んでいた平川河口から江戸城に通じる「道三濠(どうさんぼり)」と呼ばれた運河を開削しました。これは、江戸城への船路を確保するために造られた運河で、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城の和田倉門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削され、江戸湊まで1キロメートル余りの、江戸に初めて造られた人口の堀運河です。江戸前島を切り拓いて建設資材や物資を運ぶこの水路が、その後の重要な幹線となったのです。

利根川を「東遷」させた家康の目的とは

 家康にとって一番の心配事は、利根川によって江戸が洪水に襲われることでした。この大問題を解決するために家康が着手した大胆な事業が、利根川東遷です。利根川の流れを大きく東に移して(東遷)、太平洋沿岸の銚子から海に注ぐように流路を変えたのです。

 このとてつもない大規模な河川事業の目的は、江戸のまちの水害を防ぎ、洪水地帯に新しく農地をつくり、船で物を運びやすくすることでした。

徳川家康に仕えて治水、土木、開田などに力を発揮した伊奈忠次の銅像=水戸市教育委員会提供
徳川家康に仕えて治水、土木、開田などに力を発揮した伊奈忠次の銅像=水戸市教育委員会提供

 家康は、関東郡代に伊奈忠次(いな・ただつぐ)を任命して利根川東遷事業を行わせました。伊奈忠次は、関ケ原の戦いで徳川家康の近習として武蔵国内の諸関所を警備した武将です。家康の関東入国後は、埼玉県域の二大河川である利根川、荒川を治めて用・排水路を整備しました。忠治、忠克と続く伊奈氏一族は、利根川の付け替えや荒川に堤防を築いていきます。これが「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる河川改良事業です。

人の手によって少しずつ東へと流れを移し変える大工事は、30年以上の歳月をかけて、承応3(1654)年までかかりました。流れている川を締め切って別の場所に流れをつくる瀬替(せがえ)が何度も繰り返され、河口を付け替えて利根川を銚子へ導くという壮大な利根川東遷事業によって、江戸は百万都市へと発展していきました。

日本三大暴れ川の一つである利根川は、関東(坂東)にある日本一の川で「坂東太郎」の異名を持つ=国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所提供
日本三大暴れ川の一つである利根川は、関東(坂東)にある日本一の川で「坂東太郎」の異名を持つ=国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所提供

 もし、利根川東遷が実行されなかったら、今でもずっと利根川が東京湾に注いでいたら、東京湾には大量の土砂がたまって埋まっていたかもしれないし、現在の東京は、香取海のようにまったく異なる姿になっていたかもしれません。

 戦国時代までに培った土木力によって、国が安泰した江戸時代になると、江戸のまちの運河や水路づくりで舟運を整備し、江戸城周辺を埋め立てた城下町建設をはじめ、街道や宿駅の整備、河川改修、築堤工事、灌漑工事、水田開発が矢継ぎ早に人海戦術で進められました。

 その先頭を切った都市プランナーであり、土木事業家として、徳川家康の果たした役割はきわめて大きいと言えるでしょう。

緒方英樹(おがた・ひでき) 理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長