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2023.01.19

水害と地名の深~い関係 津波から生き延びた「中瀬」に建つ石ノ森萬画館の奇跡~宮城県石巻市~ 連載37回 谷川彰英(作家、筑波大名誉教授) 

震災2年後に完全再開した石ノ森萬画館は石巻のシンボル的存在=石ノ森萬画館提供

「日和山」から「中瀬」を見る

 宮城県石巻市の市街地を流れる北上川の中州である「中瀬」(なかぜ)を最初に見たのは、日和山(ひよりやま)の上からだった。それから何度も日和山に登ってみたが、いつもその景観の美しさに心打たれてきた。

 日和山は石巻のシンボル的な山である。標高約60メートルの山頂からは太平洋を眺めることができ、また、北上川を望むと、中瀬には石ノ森萬画館の丸いドーム状の建物が目に飛び込んでくる。

日和山山頂から見た北上川の中州である「中瀬」=東日本大震災前に撮影、石巻観光協会提供
日和山山頂から見た北上川の中州である「中瀬」=東日本大震災前に撮影、石巻観光協会提供

 「日和山」という山は全国に80カ所以上もあるが、石巻はその代表的な日和山として知られている。この日和山という地名は、船の航行上の必要から生まれた。

 近世(江戸時代)になって全国の米などの生産物を江戸や大坂に運ぶルートが整備されると、さらに日和山の機能は強化されていった。いわゆる東廻り航路は、日本海の港を出て津軽海峡を経て東北地方を太平洋沿いに南下するルートで、石巻はこの航路の重要な拠点の一つだった。それに対して西廻り航路は、大坂から瀬戸内海を経て、関門海峡を抜けて日本海沿いに東北に向かうルートだった。

 このルートを使う商人たちにとっては、出航する際に、そのつど日和(天候)を見ることが必要だったのである。

石ノ森章太郎氏の功績をたたえる「マンガランド構想」

 この中瀬に、マンガ家・石ノ森章太郎の記念館を建てようという話が持ち上がったのは1995(平成7)年のことだった。石ノ森章太郎(本名・小野寺章太郎、1938~1998年)は、宮城県登米郡石森町(いしのもりちょう)、現在の登米市中田町石森に生まれたが、中高時代は片道3~4時間もかけて、自転車で石巻の中瀬にあった映画館「岡田劇場」に通ったという。ストーリーはすべてここから始まった。

 翌1996(平成8)年、時の菅原康平市長との話もまとまり、いよいよ「石巻マンガランド基本構想」がスタートした。総合プロデューサーはグラフィック・デザイナーの原孝夫さん、市の協議会の座長は私が務めた。ニューヨークのマンハッタン島に似た中瀬に石ノ森萬画館を建設しようとしたこのプロジェクトは「マンガッタン構想」とも呼ばれた。

 細長い島(瀬)の中瀬は、海に直結する川の中の低地で、満潮時には波が岸壁を越えようかと思えるほどである。いつ水害に見舞われても不思議ではない。これまで書いてきた「川中島」(長野県)、「川内(せんだい)」(鹿児島県)などと同類の水害地名である。

 マンガランド構想は多くの市民グループの仲間の力を得て推進されたが、事はそう簡単に運んだというわけではなかった。石ノ森先生が石巻市の出身でないことが表面的な理由だったが、もちろん我々部外者にはわからない政治事情も重なっていたに違いない。

 石ノ森先生は無念にも1998(平成10)年1月28日に逝去されてしまったが、先生が亡くなられたことによって市民の団結は強まり、ついに2001(平成13)年7月23日、石ノ森萬画館はオープンの日を迎えた。

開館10年後に3.11津波が襲撃

 萬画館はマンガ・ジャパンなどの全面的な協力を得て順調な滑り出しを見せていた。年間の来館者は20万人を軽く超え、全国のマンガ関連の施設の中でもトップを誇っていた。

 しかし、悲劇は突如訪れた。2011(平成23)年3月11日午後2時46分、東日本を巨大地震が襲った。同時刻に私は、名古屋本執筆の取材のために名古屋の徳川美術館にいたが、立っていられないほどの揺れのなか、館内のカーテンが左右に大きく揺れているのを見て、館外に逃れた。そして、ホテルに戻ってテレビをつけると、この世のものとは思えない嘘のような映像が次々と目に飛び込んできた。ただただ驚くだけで言葉を失った。

東日本大震災の津波で被災した中瀬=石ノ森萬画館提供
東日本大震災の津波で被災した中瀬=石ノ森萬画館提供

 東北地方の太平洋沿いの諸都市はどこも壊滅的な被害を受けたが、中でも石巻市の被害は甚大だった。市民グループの代表だった阿部紀代子さんは「地獄でした…」と語ったのみで、あとは口をつぐんだ。「石巻での死者・行方不明者約4千人のうち、地震で亡くなったのはたった一人で、あとはすべて津波でした」とも。

 震災の半年後、石巻を訪れたが、その惨状に息を呑んだ。日和山の眼下に海岸沿いに広がっていた街(門脇地区)は「完全に消えていた!」。津波は場所によっては瞬間的に40メートルの高さに及んだという。

中瀬に建つ石ノ森萬画館は甚大な津波被害を受けた=石ノ森萬画館提供
中瀬に建つ石ノ森萬画館は甚大な津波被害を受けた=石ノ森萬画館提供

復興に取り組んだ石巻市民の力で再開

 悲しみのどん底に突き落とされながらも、石巻の仲間たちは懸命に復興に取り組み、2012(平成24)年11月17日、萬画館のリオープニングにこぎつけ、さらに翌2013(平成25)年3月23日に完全再開を果たした。その復活を担った一人である木村仁さんが、隣町の女川町に案内してくれ、「ここが我が家のあった場所です」とつぶやいて指さした先には、壊れた石垣以外何もなかった。その残酷さを目の当たりにして絶句した。

 そんな苦しみを乗り越えて復興に力を尽くしてきた東北の人々に心底からの敬意とエールを送りたい。

震災2年後に完全再開した石ノ森萬画館は石巻のシンボル的存在=石ノ森萬画館提供
震災2年後に完全再開した石ノ森萬画館は石巻のシンボル的存在=石ノ森萬画館提供

 萬画館を中瀬に建設することになったのは、かつてこの地が石巻の繁華街で市民の憩いの場所であり、石ノ森先生の思い出の地でもあったことから当然のことだった。ただこのような新しい公共施設を建てる際、水害などの自然災害のリスクが高い立地を選ばざるを得ない側面もあることを忘れてはならない。多くの自治体が直面している課題である。

 石ノ森萬画館が津波に耐えて生き延びることができたのは、中瀬の上に盛り土をしてその上に建てたという単純な事実によっている。自然災害そのものを防ぐことはできないが、被害を最小限に抑えることはできる。今年は関東大震災から100年目。津波は紛れもない水害である。

谷川彰英(たにかわ・あきひで) 作家、筑波大名誉教授