2023.02.02
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載40回 緒方英樹 「荒ぶる川」への大それた挑戦~関東二大河川の水を治めた伊奈一族~
「神様・仏様・伊奈様」と慕われた伊奈忠次とは
埼玉県伊奈町に「伊奈氏屋敷跡」と呼ばれる遺構があり、そこには土塁や堀の跡が見られます。町名にも残る伊奈氏とは、江戸時代に関東の治水で大きな功績を残した一族です。
関東郡代伊奈氏の祖として知られる伊奈忠次(いな・ただつぐ)は、この陣屋を拠点に関東の河川改修や水田開発を行っていきました。徳川家康の指示で、江戸水運の基盤を整え、各地の地域農民たちからは「神様・仏様・伊奈様」と神仏のように敬われていた伊奈忠次とその一族、そして、手がけた河川改修とはどのようなものだったのでしょうか。
忠次は、関ケ原の戦いで徳川家康の近習として武蔵国内の諸関所を警備した武将で、1590(天正18)年の家康の関東入国後は、初代代官頭(関東郡代の前身)に任じられて埼玉県域の二大河川である利根川、荒川を治め、用・排水路を整備した地方巧者(じかたこうしゃ)として知られます。地方巧者とは、江戸時代に土木工事や農業技術、地域行政に精通した指導的専門家のことを言います。伊奈氏一族は4代にわたって60年間、関東の水を治めました。
太古より幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきた荒川は、文字通り「荒ぶる川」で、流域に住む人々の生活を脅かしてきました。
「武州入間河沈水の事」。鴨長明が編纂した『発心集』に、入間川の洪水により堤が決壊し、堤の中に畑や家屋があり、天井まで水が溢れた様子が記されています。
洪水をなくして水田地帯を守るには、荒川の流れを変えるしかない。
そんな大それたことを計画して、行動に出たのは誰か。
江戸時代以前の荒川(元荒川)は、当時の利根川と合流して乱流を繰り返し、東京湾に流れ込んでいました。そして、それまでは荒川に手を入れる大きな工事は行われていませんでした。その荒川の流れを、埼玉平野の東部から引き離すという大改修事業を命じたのが江戸に入府した徳川家康です。途方もないビッグプロジェクトを指揮したのは伊奈忠治(ただはる)で、利根川東遷に取り組んだ父・忠次と親子2代でのチャレンジでした。
「利根川東遷」と「荒川西遷」が穀倉地帯を生み、都を栄えさせる
忠治は、まず荒川を利根川から分離する工事から始めました。問題は、どの地点で荒川の流路を付け替えるかにありました。「荒ぶる川」が氾濫・乱流を繰り返していたのは、荒川扇状地の扇の端に位置する熊谷市久下でした。1629(寛永6)年、元荒川筋の久下地点で締め切り、和田吉野川へ落とし込み、入間川筋へ流す。これによって荒川の水が現在の隅田川を経て東京湾に流れるようにしました。この荒川の瀬替えが「荒川の西遷」と言われる河川改修事業です。この事業によって下流域の足立郡と埼玉郡では100カ所以上の新田村が開発されていきました。
利根川と荒川を分離させ、利根川の流路を太平洋沿岸の銚子沖へと東側に大きく変えた「利根川の東遷事業」と、利根川と合流する「荒川」の流路を入間川につなぎ、最終的には隅田川として東京湾に流す「荒川西遷事業」によって、埼玉東部の低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、さらに舟運による物資の大量輸送が大都市・江戸の繁栄を支えていきました。
幕府直轄の技術として伊奈氏一族に受け継がれた治水技術は、伊奈流(関東流)と称され、河道の蛇行機能の温存と霞堤を整備して利根川、荒川水系を治めて、江戸の町の洪水を防ぎ、洪水地帯を新田に変貌させる開発を行っていったのです。
埼玉県域平野、そして江戸の町の治水基盤を支え続ける
江戸時代の初期、もともと低湿地の多い埼玉平野には大規模な「溜井(ためい)」が築造されていました。溜井とは、平地の低地帯に灌漑用水を蓄えておく施設で、関東での呼称です。これが台地につくられると「溜池(ためいけ)」と呼ばれました。溜井の代表的なものとして見沼溜井があります。1629(寛永6)年、伊奈忠次の次男・忠治により築造されました。そして、忠治の兄・忠政(ただまさ)もまた、父・忠次の事業を引き継いで荒川の流路統合を成し遂げています。
この忠次、忠政、忠治、忠治の嫡男・忠克(ただかつ)という伊奈氏一族によって、埼玉県域平野、そして江戸の町の治水基盤が整えられていきました。