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2023.03.16

水害と地名の深~い関係 津波は「川」を遡上する ~「稲むらの火」の歴史舞台~連載38回 谷川彰英(作家、筑波大名誉教授) 

津波対策として濱口梧陵が築いた広村堤防=広川町提供

東日本大震災の被災地を巡り実感した、「津波」は「津」を襲う波という現実

 

 3.11の東日本大震災の後、私は被災した地域と南海トラフ地震の危険性が指摘されている地域を、それこそ「津々浦々」に至るまで足を運んだ。津波の被害を受けた場所、もしくは津波の被害を受けやすい地域の地形はどうなっているのかを確かめるためである。

 その結果、大きな被害を受けた地域にはある種の共通性があることに気づいた。それを「浦・津・川モデル」と名付けてみたが、動機はごく単純な事実に着目したことだった。

 それは「津波」という文字だ。「津波」とは「津」を襲う波のことだ。この単純な事実に着目することによって、ことの本質が見えてきた。

 3.11では宮城県の気仙沼市や女川(おながわ)町に象徴されるように、入り江の奥に位置する市街地が壊滅的な被害を受けている。一般に入り江近くの海辺を「浦」と呼ぶが、津波は浦を軽く乗り越えて奥に侵入すると、両側の山に押されて津波の高さはさらに増すことになる。

 そして重要な点は、その最高の勢いに乗った津波は、入り江の最奥部に位置する「津」を直撃するということである。「津」とは要するに「湊(港)」のことで、当然そこには市場が置かれ、商店街も形成され、人家も立ち並ぶことになる。そこに巨大津波が押し寄せたらひとたまりもない。それが東日本大地震のもたらした現実だった。

 今回さらに注目したいのは「川」の存在である。通常は海に流れている川だが、津波の発生によって川は津波が流れ込む格好のルートに変身して周囲の人家を呑み込んでいく。その意味で「川」は津波の凶器になるとも言える。

 その実態は宮古市、陸前高田市、気仙沼市などで目撃したが、最大の悲劇は北上川を遡上した津波によって74名の児童が犠牲になった大川小学校事件(石巻市)だった。

和歌山県広川町で毎年10月に開催される「稲むらの火祭り」の松明行列。幻想的な炎の行進に込められた町民の想いとは=広川町提供
和歌山県広川町で毎年10月に開催される「稲むらの火祭り」の松明行列。幻想的な炎の行進に込められた町民の想いとは=広川町提供

 和歌山県有田郡広川町━━これが今回紹介する歴史の舞台である。「広川」は「ひろがわ」と読み、町名の由来は現地を流れる「広川」だったが、この町名に関してはちょっと変わったエピソードがある。

 1955(昭和30)年、それまであった広町、南広村、津木村が合併されて「広川町」が誕生したが、当初は「ひろかわちょう」だった。それは自治省(現総務省)で誤って登録されたためで、1996(平成8)年、読み方を「ひろがわちょう」に訂正している。

 「広川」という川は全長20キロという小さな河川だが、湯浅町との境を流れ、昔から物資の輸送などで重要な機能を果たしていた。

 さて、これからが本題である。

江戸・安政の大地震、和歌山の「広川」を大津波が襲う

 1854(嘉永7・安政元)年、紀州和歌山藩広村(現広川町)で11月4、5日と大地震があり、5日の地震の後、大津波が広村を襲った。その村に濱口儀兵衛(梧陵)という人物がいた。濱口は地元で生まれたが、下総国の銚子で醤油業の7代目としてその経営にも従事していたほどの「やり手」だった。

現広川町で生まれ、安政の大地震の津波で多くの村人を救った功績をたたえた広川町役場前に建つ濱口梧陵の銅像=広川町提供
現広川町で生まれ、安政の大地震の津波で多くの村人を救った功績をたたえた広川町役場前に建つ濱口梧陵の銅像=広川町提供

 「稲むらの火」というのはこの大津波の際、村人に津波を知らせるために夜中、稲むら(稲を保存した束)に火をつけて事態を知らせ、村人たちを内陸にある八幡神社に誘導し、多くの命を救ったという実話に基づく話である。

 濱口梧陵(ごりょう)の手記によれば、4日に強い地震があり、津波を警告して村人を八幡宮に避難させた。そして5日を迎えたが、地震も落ち着いたということで、村人は自宅に帰っていたところに午後4時、再び大地震が起こった。濱口は次のように書き残している。 

 その激しさは、前日のものとは比べ物にならない。瓦は飛び、壁は崩れ、塀は倒れ、ほこりや細かい砂が舞い上がり空を覆った。 ~中略~ このとき、私はひそかに、この状況に対応できるのは私ひとりしかいないと覚悟を決めて、元気な者を励まし逃げ遅れている者を助け、災難を避けようとした瞬間、怒涛が早くも民家を襲ったと叫ぶ者があった。私も急いで走っている中、左の方の広川筋をふりむいてみると、激しい波はすでに数町(一町は約百十メートル)川上まで遡り、右の方を見ると、人家が崩れ、流されていく音が痛ましくて、肝を冷やした。(広川町文化財保護審議委員会・広川町教育委員会『浜口梧陵小傳』)

濱口梧陵の機転で放たれた「稲むらの火」が村人を救う

 濱口は濁流に呑み込まれながらも流木につかまって一命をとりとめ、八幡神社に戻ってみると、人々は悲鳴を上げ大混乱に陥っていた。日はとっぷり暮れてしまった。しかし、その暗闇の中で助けを求めている村人がたくさんいるはずだ。

 そこで、松明(たいまつ)をつけて、元気な者十余名にそれを持たせて田や野原の道を下り、流された家の梁(はり)や柱が散乱している中を越えて進むと、命の助かった者数名に出会った。なお進もうとしたが、流されてきた材木が道を塞ぎ、歩行も自由にならない。そこで、従者に退却するよう命じて、道ばたの稲むら(刈った稲または稲藁を積み重ねたもの)十余りに火を放たせ、それによって、漂流者に、その身を寄せて安全な場所を表示しようとした。この計画はむだではなかった。この火を頼りにして、辛うじて命が助かった者も少なくなかったからである。このようにして、一本松に引き返してきた頃、激しい大きな波がやってきた。その前に火をつけた稲むらが、押し寄せてきた波に漂いながら流れている情景は、ますます天災が恐ろしいものであると感じさせられた。(同上)

津波対策として濱口梧陵が築いた広村堤防=広川町提供
津波対策として濱口梧陵が築いた広村堤防=広川町提供

 これが後世に伝えられる「稲むらの火」の物語だが、この話は津波対策に尽くした美談として戦前の第4期国定教科書にも取り上げられている。

 濱口はその後、海岸線に沿って「広村堤防」を築き、それが1946(昭和21)年の昭和南海地震の津波の被害を最小限に食い止めたと言われる。まさに広川町では濱口梧陵は津波対策の恩人とも言うべき人物である。

広川町の津波防災教育センター。「稲むらの火」の人命尊重の精神と教訓を受け継いでいくため2007年に開設された=広川町提供
広川町の津波防災教育センター。「稲むらの火」の人命尊重の精神と教訓を受け継いでいくため2007年に開設された=広川町提供

谷川彰英(たにかわ・あきひで) 作家、筑波大名誉教授