ソーシャルアクションラボ

2023.04.06

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載43回 台湾で「地下ダム」をつくった日本人技術者がいた!~いま、自然環境に配慮した地下ダムの発想が見直されている~ 緒方英樹

嘉南平野に農業用水を供給する烏山頭(うさんとう)ダムは1920年に着工し30年に完成

稲穂の国の治水と利水、重ねた経験と技術を海外で

 水害とは、大雨や台風など多量の降雨によって引き起こされる洪水など災害を言いますが、水が少なすぎるために起きる干ばつなども含まれます。近年でも、渇水による影響は飲み水、工業用水、農業用水にとどまらず、社会・経済活動にも及んでいます。

 古来、稲作に励んできた日本人にとって水はまさに天の恵みでしたが、地形が複雑で自然災害が多い日本では、暮らしを水害から守る治水と、荒れ地や湿地帯に河やため池から水を引く、あるいは増えた水を排水する利水を繰り返しながら生活を整えてきました。

 古代から中世、近世と、人は自然と向き合いながら経験と技術を重ね、近代になると、明治政府による公共事業は欧米の先進土木技術を獲得して飛躍的な発展を遂げています。そうして培った経験と技術を、次は海外の公共事業にも役立てようとするパイオニアが現れました。その代表的な土木技術者が、パナマ運河工事にチャレンジした青山士(あおやま・あきら)であり、台湾に渡って南部の広大な荒れ地を穀倉地帯によみがえらせた八田與一(はった・よいち)でした。ダムと用水路の完成によって人々の生活は潤い、現在も利用されています。

嘉南平野に農業用水を供給する烏山頭(うさんとう)ダムは1920年に着工し30年に完成
嘉南平野に農業用水を供給する烏山頭(うさんとう)ダムは1920年に着工し30年に完成

 さらに、八田のほかにも、台湾の治水や利水事業で大いなる偉業を成しとげた技術者のことが台湾と日本で検証されてきています。

忠犬ハチ公と水利技師・鳥居信平

 八田が烏山頭ダムを建設した時代に、もう一人の日本人技師が、台湾最南端の屏東(へいとう)県で地下ダム「二峰圳(にほうしゅう)」を建設、現在も地域の20万人市民の生活を支えています。その農業土木技術者の名は、鳥居信平(とりい・のぶへい)です。

 1883(明治16)年、静岡県周智郡上山梨村(現・袋井市)に生まれた鳥居は、八田と同じ金沢の旧制四高に進みます。八田の3年先輩です。その後、2人はともに東京帝国大学に進み、土木工学を専攻した八田は嘉南(かなん)平原に烏山頭ダムを、農業土木を専攻した鳥居は地下ダムを建設していきました。

 鳥居は、東京帝国大学農学部で上野英三郎教授に学びます。上野は、日本の農業土木、農業工学の創始者であり、その農業土木学(現・農業農村工学)とは農地を整備して灌漑(かんがい)と排水の設備をつくって地域環境を整えるための学問です。

 その上野は、知る人ぞ知る忠犬ハチ公の飼い主でした。1932(昭和7)年10月4日付の東京朝日新聞朝刊に「いとしや老犬物語 今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる七年間」という記事が掲載されています。東京渋谷駅の銅像で知られる忠犬ハチ公が、雨の日も風の日も待ち続けた主人こそ上野だったのです。東京帝国大学人事録には「ウエノヒデサムロウ」とふりがなが付けられています。

林辺渓は雨季には川の氾濫に悩まされ、乾季には飲み水にも事欠く劣悪な場所だった
林辺渓は雨季には川の氾濫に悩まされ、乾季には飲み水にも事欠く劣悪な場所だった

自然環境への配慮を重視した地下ダム「二峰圳」建設

 農業土木を教えた上野の教え子は全国に3000人以上にのぼり、その中でも第一級のスペシャリストであった鳥居に、台湾製糖が求めた仕事は、屏東平原の荒れ地に水を引くことでした。

 しかし、林辺渓辺りのその地は、保水力の乏しい大地でした。乾期は干上がって見渡す限りゴロゴロした石の砂漠で、雨期は洪水が一帯をじゅうりんして山からの石を無数に運んできます。開拓するには、水の確保が不可欠でした。荒涼とした大地にどうやって水を引くか。鳥居は、水源を探して山に入らざるを得なかったのです。

 先住民を案内役にした2年間の調査で、ある日、伏流水が海抜15メートルまで流れていることを発見したときの喜びは望外のことだったことでしょう。鳥居は、その地下を流れる清廉な伏流水を水源とする地下ダム計画を練りました。川の干上がる乾期に川床を掘り起こして堰(せき)を造り、せき止めた伏流水を幹線水路3436メートルで導くという計画でした。

 当時、その辺りは先住民の支配する地域で、毒蛇とマラリアがはびこる地帯でした。鳥居は、マラリアの特効薬キニーネを飲んで山奥に入り、氷砂糖で糖分を補い、先住民の頭目と酒を酌み交わしながら交流を深めていきました。住民との共存共栄を重視して水利開発に8年間携わります。

 住民との共存共栄で鳥居が心がけた自然環境への配慮とは、元々その地に住み着いていた先住民・高砂族の暮らしを損なわないこと、聖地信仰のあつい原住民への誠意でした。

 川床の下を流れる伏流水は住民たちの狩り場や漁場でもあったのです。鳥居は、村落を回って頭目たちと何度も話し合いの場をつくりました。狩猟や漁業で生業にしてきた先祖伝来の生活慣習を重んじるためです。

 先住民の若者たちも工事に従事して約2年、完成した地下ダム「二峰圳」は、現在も1日当たり雨期で12万立方メートル、乾期でも約3万立方メートルという命の水を供給しています。そして今日、屏東は農業県と呼ばれるようにまでなっています。

 さらに、鳥居はダム完成後、新農地に移住してきた農民に不公平な格差が起きないように、2年から3年の輪作給水法を取り入れました。水を平等に分配するこの方法で、乾期にサトウキビ、雨期に米や芋など農作物の収穫が格段に増えていきました。八田は、その鳥居が取り入れた輪作法を研究して、嘉南平原の灌漑事業で大規模に展開したのかもしれません。

目に見えない土木の恩恵がある

 しかし現在、「二峰圳」の全貌を目にすることはできません。川底の下を流れる伏流水をせき止めて、農業や生活用水に清流を供給する地下ダムだからです。だからこそ自然環境と景観を損なわない。そして、その機能は、余った水を自動的に排水し、満水時には水門を開閉して調節するという極めて優れた管理システムを作り出しています。

地下ダム「二峰圳」の入り口
地下ダム「二峰圳」の入り口

 鳥居は、地下ダム「二峰圳」建設というハードと併せて、少ない水で収穫量をできるだけ増やす運営ソフトを追及して、住民の生活向上を目指しました。今で言うSDGs(持続可能な開発目標)に照らすなら、持続可能な農業開発を視野に入れていた先見性に驚かされます。

 鳥居の胸像が二峰圳に向かう途中の林後四林平地森林公園に、さらに鳥居の生まれた静岡県袋井市「月見の里学遊館」玄関口に建っています。ともに、台湾の実業家・許文龍氏が自ら製作して寄贈されたものです。

緒方英樹(おがた・ひでき) 理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長