2023.05.02
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 台湾で、渓谷を空中でつないだ日本人技術者・磯田謙雄~そのルーツは、江戸時代の逆サイホン方式にあった!~ 連載44回 緒方英樹
渓谷を渡す水色水管、緑色水管、2つの色の違いとは
台湾中部・台中市新社区の台地に、鋼鉄の水管が渓谷を越えて眼前に迫ってきます。
これが八田與一と同じ金沢出身で後輩でもある磯田謙雄(いそだのりお)の設計した「白冷圳(はくれいしゅう)」の水管です。白冷圳とは、台湾中部・台中市新社区の台地に水を注ぐ全長16.6キロメートルの農業用水路のことを言います。
1999(平成11)年、台湾中部で起きた大地震災害を契機に、「白冷圳」の恩恵を受けてきた地域民は、磯田技師の業績を見直しています。地震によって地形が変わり、逆サイホンの原理で動いていた送水路が使えなくなってはじめて、新社台地に住む住民はそれまで当たり前のように使っていた水の有難さを初めて実感したといいます。そこに磯田謙雄という日本人技術者の功績が浮上しました。
建設当時、日本から台湾へ船で運び込まれた鋼鉄の水管は、台湾中部大地震で損壊しましたが、新たに設置された水管(水色)と、緑色に塗装された磯田技師設計による逆サイホン水管が、新社台地に台湾と日本の絆を象徴化して並んでいるように見えます。
八田與一の後輩、磯田謙雄の偉業とは
水管のある台中市新社の台地(面積960ha)は、台北から南西約120km、海抜約500mの高台に広がっています。台湾が日本統治時代(1895年~1945年)、この乾燥した台地で水は雨水だけに頼る状態でした。当時、少ない飲み水、農業用水といった水資源をめぐって地域では争いも絶えなかったといいます。
この高台に水を引くには、新社台地より約90mも低いところを流れる大甲渓(だいこうけい)から汲み上げるしか方策がなかったのです。そこで磯田技師が計画したのが、導水路の全長17キロ弱、22ヵ所のトンネル、14ヵ所の橋で渓谷を水路(水管)でつなぐという大胆な発想でした。
磯田謙雄は、八田與一技師と同じ金沢(現・尾山町)出身で7歳年下、旧制金沢一中、旧制四高、東京帝国大学工科大学土木工学科から台湾総督府、まさに八田與一と同じ道を歩みます。大正7年、台湾総督府に赴任した磯田を「丁度今は家内が内地に行って僕一人だから・・」と言って自宅の離れに住まわせてくれたのが、先輩・八田與一でした。
八田與一らによる嘉南大圳(かなんたいしゅう)事業は、当時、東洋一の灌漑土木工事として、大正9年に着工し、昭和5年に10年間を要して竣工しました。圳とは灌漑水路のことです。磯田による導水路建設は昭和3年に着工、同7年に竣工して通水しました。
台湾の逆サイホン方式は、金沢の歴史にあった!
この白冷圳の技術的特徴は、白冷台地と新社台地の高低差を利用して水を揚げる逆サイホン方式にあります。地形の変化を読み、自然の勾配で水を流すためには、精微な測量が必要でした。
その技術は、そのおよそ300年前、八田技師や磯田技師の郷里・金沢の歴史の中にうかがえます。加賀前田家第三代藩主・前田利常は、城と町の防火用水を確保するため、犀川の水を上流から引いてくる計画をたてます。しかし、犀川の上流から城まで水を引いて、あまねく満たすということは至難のビックプロジェクトでした。水路は真っ直ぐで平坦ではないからです。この辰巳用水を引くという難工事を任されたのがでした。
兵四郎は、の取水地点から金沢城内まで水路全長640m、約3.3㎞のトンネルに約2,000本の木管を用いて導水します。これが辰巳用水の逆サイホン方式でした。工事にはきわめて精微な測量技術が要求されました。兵四郎は、工事の人夫に松明(たいまつ)を持たせて、用水を通す崖の上に並べ、その明かりを対岸から見て、水路の勾配に見合った高さを測ったという伝承があります。兵四郎の駆使した測量、逆サイホン方式、水トンネルの開削、水を通す木管などの技術は当時、世界的なレベルだったと思われます。
そして、この水は、現在も兼六園や金沢市内に送られています。金沢の歴史的技術が、時空と海峡を越えて台湾で活かされたと言えるでしょう。
昨年の2022年、「白冷圳」は竣工90周年の節目を迎えました。台中市白冷圳水流域発展協会は10月15日、毎年恒例の「白冷圳文化祭」を開催、「白冷圳」を建設した石川県金沢市出身の土木技師・磯田謙雄の貢献に感謝しました。
逆サイホンの原理を利用した農業用の水路「白冷圳」は、新社、東勢、石岡など各地で生活用水や灌漑用水の重要な供給源となって人々に“命の水”をもたらし、現在、2号逆サイホン地点は、台湾歴史建築百景に選ばれています。