2023.05.19
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載45回 水は水をもって制する~水防の神事「おみゆきさん」に込めた武田信玄の思いとは!~ 緒方英樹
今に伝わる水防のお祭り「おみゆきさん」
「ソコダイ、ソコダイ」。毎年の春4月、威勢のいい掛け声と共に神輿が信玄堤を練り歩きます。女装束の担ぎ手たちが踊りながら三社神社へと進むこの祭りは、古くから伝わる川除(かわよけ)祭、通称おみゆきさん。女性の格好をするようになった時期は定かではありませんが浅間神社の祭神が女性神であったことから赤い長襦袢を着、花笠に白粉をするようになったということです。
その起源は古く、甲斐市立図書館資料によると、天長2(825)年に大雨によって御勅使川(みだいがわ)と釜無川(かまなしがわ)との合流地点で洪水が起き、甲府盆地が水害にみまわれたため、釜無川と御勅使川の合流地点であった赤坂台地の麓(三社神社周辺)で川除けの神事をおこなったのがはじまりといわれています。
水を制する者は国を制する
この祭りを復活させたとされる武田信玄、どんな思いが込められていたのでしょうか。
大河ドラマにも登場する武田信玄といえば、戦国時代、甲斐の守護大名で、風林火山の旗印、生涯のライバル上杉謙信と戦った川中島の合戦でよく知られています。織田信長を怖れさせ、信長・徳川家康連合軍を三方ヶ原で打ち負かした戦国の猛者、徳川家康に常に脅威を与え続けた強敵です。
今から502年前、信玄の生まれた甲斐の国(山梨県)は、もともと峡(かい)といって四方を山に囲まれた谷を表していました。山に降った雨は川に注ぎ込み、洪水を起こすと、石や泥と一緒にものすごい勢いで甲府盆地に押し寄せました。家を、田畑を、人馬を流す大洪水。生活や風景を一変させてしまう自然の猛威を、信玄は子供の頃から心に刻んできたことでしょう。
21歳の信玄が甲斐の領主になった翌年、富士川の大洪水が甲府盆地を呑みこみました。若き領主は、水の観察から始めます。「水はどう流れ、土砂はどう動くのか」。地形や山の様子を丹念に調査し、会議の場を何度も設けました。家来の意見をよく聞き、出自に関係なく人材を発掘し、水を鎮める知恵や工夫すなわち土木のやり方を討議、ある結論に達します。
「水の力に逆らわず、水の力を利用する」。敵(水)の勢いを味方につける作戦でした。信玄は、川の水が大洪水を起こす前に、あちこちで水のエネルギーを弱める様々な作戦を考えます。特に、大きな被害を及ぼしているのは、釜無川と御勅使川が合流する地点だったので、そこに段階的な作戦を仕掛けました。その代表的なものが、信玄堤です。
「人は石垣、人は城、人は堀」
釜無川の氾らん防止を祈願する水防祭りを復活させた武田信玄には、集落の氏神を堤防の頭に移し、参道となる堤を住民自らが大事にして、大勢の人たちによって堤防を踏み固めさせるねらいがあったと思われます。
信玄堤が完成して最初に踊ったのは、高台から堤防の傍らに移住してきた農民たちであったことでしょう。信玄はそこに新しい村をつくり、新住民には生涯税を免除しました。その代わりに、堤防の維持管理と、洪水時の水防をまかせたというわけです。
そして信玄は、新しく拓いた農地で葡萄や菜種、綿などの作物づくりを奨励し、鉱山を掘り、産業を興し、経済的な基盤を確立していきました。「人の心が離れてしまったら国は滅びる」。その信念から見事に領民の人心をつかんでいった信玄は、領民との確かな信頼関係を築いていったのです。ここにこそ、強い戦国武将たるゆえんがあると思います。