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2023.07.02

「長生きだったねと見送るはずが」 記憶伝える遺族の思い 九州豪雨

 熊本を中心に九州5県で災害関連死を含め81人の死者・行方不明者を出した2020年7月の九州豪雨では、被災地の復旧・復興が少しずつ進む一方、今も1000人以上が仮設住宅での生活を強いられるなど爪痕は色濃く残る。災害で大切な人を亡くし悲しむ人、住む場所を失い苦しむ人を少しでも減らせるよう、記憶を伝え続けたい。あの日から3年を前に、遺族はそう、強く思っている。

 「伯母は何を思いながら亡くなっていったのか。『長生きだったね』と見送るはずが、『苦しかったね。ごめんね』と謝るしかない涙となった」。災害関連死を含め21人が亡くなった熊本県人吉市であった2日の追悼式で、遺族代表の倉岡伸至(しんじ)さん(54)=同市=は、亡くなった伯母アヤ子さん(当時92歳)を思い返し、言葉を詰まらせた。

 豪雨が襲った20年7月4日。介護福祉士の倉岡さんが勤務する市外の施設から夕方に帰宅すると、内部はぐちゃぐちゃだった。約2メートル浸水し、押し流されて散乱した家具などの片付けに追われた。「アヤ子おばさんは大丈夫かな」。電話はつながらず、6日朝、市内のアヤ子さんの自宅を訪れると、泥まみれになった部屋で亡くなっているのを、安否確認で一緒に訪れた警察官が見つけた。

 1人暮らしだったアヤ子さんは、10年ほど前から足腰が弱くなり、数年前からはつえが欠かせなくなっていた。耳も遠くなり、電話では話が通じないことも増えた。「もしかするとサイレンの音や近所の人の呼びかけも、聞こえていなかったのかもしれない」。あの日の前にかかりつけの病院からは入院も勧められていただけに、もっと早く対処していれば――。後悔が残る。

 アヤ子さんは5人きょうだいの長女。祖父から受け継いだうどん店を切り盛りし、「我がことよりも人のため。人様のお陰で生かされている」が口癖だった。子どもはおらず、親戚の中で最年少だった倉岡さんのことを、実の子のようにかわいがってくれた。幼い頃に振る舞ってくれた手作りのおはぎは格別だった。

 災害前は月2回ほど、アヤ子さんの食材の買い出しに付き添うのが、倉岡さんの役目だった。アヤ子さんは買い物から帰ると、町内の地蔵に酒や菓子を供えるのが習慣だったと、亡くなった後、近所の人から聞いた。「口癖の通り、常に人のことを優先して考えてきたアヤ子おばさんらしいな」との思いがこみ上げる。

 火葬後、アヤ子さんの部屋の泥水をかき出すと、いつも持ち歩いていたバッグの中から「長生きできたのも皆様のおかげです。私はもう長く生きられません」と感謝の思いをつづったノートの切れ端が見つかった。常に献身的で気遣いの人だった伯母の振る舞いや言葉が思い起こされ、「自分に生き方を教えてくれていたんだな」と感じる。

 今回の遺族代表あいさつを引き受けたのは、身近な人を亡くした当事者の思いを伝えることが、同じような災害を繰り返さないことにつながると思ったからだ。「あの日見た惨状、伯母を亡くした悲しみは忘れることはないでしょう」と力を込め、誓いを新たにした。「災害はいつ起きるか分かりません。教訓を生かした防災対策を行い、当事者として経験を伝え、これからも協力していきたい」【山口桂子】

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