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2023.07.03

復興へ「小さな声」届けるオッチャン 心の病と共に 西日本豪雨5年

 尊い多くの命が失われた2018年7月の西日本豪雨から、5年を迎える。岡山県倉敷市真備(まび)町では被害が集中し、51人が亡くなった。高梁川に流れ込む小田川と、その支流の堤防計8カ所が決壊。約1200ヘクタールが浸水した。その後、人々は一歩、一歩、明日を目指してきた。その中で新たな生きがいを見つけた男性もいる。そこには「小さな声」を生かした復興へのまちづくりがあった。【堤浩一郎】

 真備町箭田(やた)地区。矢吹顕孝(けんこう)さん(49)が街を歩くと、道行く人たちが次々に声を掛ける。「元気かい」「今日は仕事?」。何でも頼めるオッチャンとして、地元では欠かせぬ存在となっている。

 市真備公民館箭田分館で毎週土曜日に開かれている「箭田小学校区放課後子ども教室」では、生徒たちの人気者だ。国語、算数、英語を教える。順繰りに机を回っていると、「矢吹さ~ん。これ、教えて」と、待ちきれない女の子が呼び立てる。元気いっぱいの男の子は、後ろから肩に飛び乗ってくる。

 矢吹さん。実は長年、精神障害を抱えている。「子どもたちが元気に走り回る姿を見ると、癒やされる」。大学卒業後、京都市内で働いたが、25歳の時に統合失調症、うつ病と診断された。01年に岡山県井原(いばら)市の実家へ戻り、精神医療が専門のまきび病院(真備町箭田)へ通院した。

 09年から2年半ほどは、入院生活を送った。「街で暮らしたい」という思いが募る一方で「仕事を見つけて、生きていけるのだろうか」と悩んだ。そんな時、箭田地区を拠点とするNPO法人「岡山マインド『こころ』」の存在を知った。

 代表理事の多田伸志(しんじ)さん(62)は、精神障害を抱える人たちが自らの手で必要な支援態勢をつくることを目指し、グループホーム、作業所の運営、地ビールの醸造などを手がけていた。矢吹さんは治療で症状も落ち着いた12年に退院。こころのメンバーとなる。

 箭田の街での生活が始まった。「道であいさつをしたら、快く声を返してくれた」。地域への愛着が芽生える。そこに、西日本豪雨が襲った。18年7月7日早朝。仲間4人とともに暮らしていたアパートの2階に、水が迫っていた。救出に駆けつけたのは、多田さんだ。素潜りが趣味のため自宅にあったフィンを足に装着し、泥水の中を泳いできた。

 矢吹さんらはしばらく、まきび病院に避難入院。しかし、多田さんに「帰りたい」と訴え続けた。人々が優しかった街に戻りたかった。8月上旬には新たなアパートへ入居したが、地域の人たちの大半は避難所生活。街は一変していた。

「誰もが助け合うまちづくりを」

 そのころ、一人の女性と出会う。東北福祉大総合マネジメント学部の石塚裕子(ゆうこ)教授(都市および地方計画)だ。当時はひょうご震災記念21世紀研究機構(神戸市)の研究員で、ボランティアとして真備地区に来ていた。

 石塚さんは、11年の東日本大震災後の復興事業に接する中、「インフラの整備だけでなく、高齢者や障害者ら『小さな声』が主役のまちづくりが必要だ」と感じていた。真備地区から避難生活を送っていた人たちの「生の声」を届けるインタビューを立案。こころのメンバーから募ったパートナーに、矢吹さんが手を上げた。

 18年11月から19年12月まで、仮設住宅などに住む計26人を訪問した「数珠つなぎプロジェクト」は、水害後に開設された「お互いさまセンターまび」のホームページに掲載。真備への「望郷」の思いを丹念に聞き出した。多田さんが言う。「矢吹さんたちは、言いづらいことを抱えて生きている。そういう人間が話しかけているうちに、相手も話しづらいことを打ち明ける」

 初対面だった当時69歳の女性は、トラウマを吐露した。卵焼きを作っていると、半熟の部分が水の揺れを想起させ、涙が止まらなくなるのだと。石塚さんは「矢吹さんも対話を重ねるうちに朗らかになり、彼自身が変わった」と振り返る。

 こころでの活動、生活が中心だった矢吹さんは、復興に向けた街の一員となっていく。歩いていると、「送っていこうか」と車へ乗せられるようになった。今は箭田分館管理組合の役員も務める。箭田地区まちづくり推進協議会事務局長の守屋美雪さん(74)は「矢吹君は利害関係なしに動き、優しい。人間的な魅力がある。誰もが助け合う。まちづくりの理想」と語る。

 水害の痛ましさは忘れられないが、矢吹さんはほほ笑む。「自分の人生にとっては、大きな転機だったかもしれないですね」

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