ソーシャルアクションラボ

2023.07.14

お片づけ|こたえは森の中~森のピッコロようちえんの冒険❶「子どもが感じることを、待つ保育」

20年以上前、東京で幼稚園教諭をしていた。3歳児の担任だったが、隣のクラスはいつもお行儀がよかった。しかもお片づけも上手。どうしたらあんな子どもたちに育つのだろうと思っていた。そして進級。彼らは4歳児クラスになった。クラス替えはなく、担任だけが変わった。

すると、隣のクラスのお行儀が一気に悪くなった。当然お片づけもできないのだ。そうか、担任の影響力ってこんなに大きいのだと思ったが、〝待てよ、これはいいことなのかな〟とも思った。担任によって子どもたちの態度が変わる。それを自主的とは言わない。それは自分の人生なのか。担任の人生を生きているだけではないのか。大人に依らず、自分の人生を自分で作る子どもに育てられないか。

それが子どもを信じて待つ保育のきっかけだった。自主的というのは、子ども自身が片づける意味やお行儀よくする理由がわかっているということだ。

マニュアル的に「先生が言ったから」だけで動くのではない。そんな保育方法はどこにあるのだろう。シュタイナーかもしれない、モンテッソーリ? ドイツ? どこ? 探しまくった。

しかししっくりくる保育方法は見つからなかった。その時に一冊の本に出会ったのだ。「発達理解と保育の方法」(本吉圓子さん著)。目から鱗だった。驚きすぎて泣けてきた。これだと思った。

その本には〝保育は人間性です〟と書いてあった。そうだったのだ。私は自分で考え、自分で決める子を育てたいのに、自分はマニュアルを探し続けていたのだった。保育や子育てにマニュアルはない。保育は職人だ。経験と勘が必要だと思う。

それから私は、自分の保育を作り出していった。

例えばお片づけ。保育力がない新任のころは、子どもたちを怒りながら片づけさせていた。それでも1年くらい経つと、この方法はよくないと思い始める(当たり前だ)。そして、今度はほめ始めた。

ほめるべきことをほめるのではなく、片づけている子を大げさにほめる。すると、それを聞いた周りの子もほめられたいので片づけ始める。要はほめるのに下心があったということだ。するとおもちゃを箱に入れる時に、子どもたちがチラッと私の顔を見るのだ。〝どうして見るの!〟とイラッとしたが仕方ない。そうさせているのは自分なのだ。

怒らず、ほめずに子どもたちが自ら片づける保育方法を考えた。それは自分で編み出すしかなかった。

ある日、おもちゃが教室いっぱいに広がっている日があった。

よっしゃ!今日しかない!と思い、おもちゃを片づけず、その上にゴザを敷いた。その幼稚園の子どもたちは弁当を持参していた。ゴザの上に座って弁当を食べるのだ。シナリオ的には

①お尻の下に積み木がある

②どうもお尻が痛い

③食べにくい

④あっ、お片づけしなかったからだ!と子どもが気づく

⑤今後はお片づけをしよう!と子ども自身が思う

⑥自ら片づける子になる

成功! となっていた。決行。弁当を食べ始めた。子どもたちは普通においしそうに食べていた。しかしいつまでたっても誰も何も言わないのだ。あれ、おかしい。あまりにも反応がなかったので、イケテナイと思ったが仕方なく私の方から聞いてみた。

「ね、何だかお尻のあたり変じゃない?」。子「ううん」。

え!!ううん!?

その隣の子にも「ね、ちょっとお尻が痛いよね」。子「大丈夫」。

ゲッ!そうだったのか!

3歳児はお尻の下に積み木があろうがなかろうが、そんなことお構いなしに食べられるのか!ガーン。保育失敗。園長先生の目を盗み(知られたら間違いなく怒られる)、何日も考えたことが一気に終わった。

申し訳ないことだが、こうした失敗を何度も重ねた。そしてやっと子ども自らがお片づけをする保育ができるようになった。

これが私の保育力になる。怒らない、ほめない、感じさせる保育。感じることを待つ。けしかけて待つ。待つ保育は決して放っておくわけではない。片づけなさいとひとこと言うより、10手以上は保育者が考えたり試したりしているのだ。だから保育力がつく。そしてだからこの仕事が面白いと思うのだ。

山梨県の子育て応援フリーペーパー「ちびっこぷれす」から掲載。 写真は、すべて加々美吉憲編集長撮影。

【書き手】中島久美子。幼児教育家。「森のピッコロようちえん」代表。東京・横浜・山梨県内の幼稚園・保育園に勤務後「時間に追われることなく、子どもと向き合う保育をしたい」と、「ピッコロ」をお母さんたちと立ち上げる。 小学館雑誌「3、4、5歳児の保育」(2010年2月号の第45回「わたしの保育」)において、保育での出来事を綴った「動物の死」が大賞受賞。地球元気村特別講師。2021年にドキュメンタリー映画「Life ライフ~ピッコロと森のかみさま」が公開された。保育のモットーは「一人一人を丁寧に。流さない保育」。9月から、オンライン連続講座「ピッコロと『10の姿』〜しあわせをつくる子どもたち」を開催予定。

感じることを待つ。けしかけて待つ。待つ保育は、決して放っておくわけではない。

コマロンをはじめた山内(2児の母・新聞記者)の、心に残った言葉 大人の「圧」に恐怖を感じさせて子どもを動かす子育てはしたくない、といつからか思うようになった。それは、日本のあらゆるレベルで「怖い」「怒られたくない」を原動力に頑張らせる文化が根付いているように感じてきたから。終わらせたい。産後の私の、小さな抵抗だった。 でも正直、どうすればいいのか、分からなかった。子どもとの丁寧な関わりの中身って、そもそも何? 日々の生活をまわしていくことに精一杯になると、「そこ」の子どもとのやりとりに、心と時間があまりさけなくなる。夕方、仕事を終えて保育園へ迎えに行く。帰宅後、お風呂に入りたがらず、なかなか寝ない我が子前に、諦めたり、声を荒げたり。機嫌良く動いて欲しくて、過剰に褒めてしまったこともあった。 子が「感じて」自らに動くためには、時に大人が、見えないところでけしかける必要もある――。中島先生のコラムを読み、はっとした。保育の専門家は日常の中で、子どもが感じる「仕掛け」を試行錯誤して生み出している。その関わりに専門性があり、人間性も問われる。すぐに磨かれるものではない。 けしかけるために、子どもの気持ちと動きを想像する。子どもが想定と違う動きをしても、諦めたり、怒ったりするのではなく、ちょっと視点を変えて、根気よく向き合う。それが子どもとの「丁寧な関わり」の中身のひとつなのだろう。正解はすぐに見つからないし、大人になったからと言って、急にできるようになるわけではない。自分なりに育んでいくしかない。それがきっと、私が伝えていきたい「子育て」だ。