2023.08.04
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 僧・禅海(ぜんかい)、「青の洞門(あおのどうもん)」開削~49歳からの大いなるチャレンジ~ 連載47回 緒方英樹
線状降水帯
先月7月7日から10日にかけて、九州北部地方では猛烈な雨が降り続き、大分県中津市の山国(やまくに)川上流に「氾濫発生情報」が出され、本耶馬渓町(ほんやばけいまち)の観光名所「青の洞門(どうもん)」の周辺では川の水があふれ出して氾濫が発生し、店や住宅などが床上浸水の被害を受けました。
気象庁によると、線状降水帯とは、次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなして組織化した積乱雲群が、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞して作り出される長さ約50~300キロ、幅約20~50キロの線状に伸びた強い降水をともなう雨域をいいます。
この線状降水帯の影響によって、国の重要文化財に指定されている大分県中津市の「青の洞門」近くにある耶馬渓(やばけい)橋の石造りの欄干が半分以上壊れてしまいました。山国川に架かる耶馬渓橋は、日本最長の石造アーチ橋で大分県の有形文化財に指定されており、日本百名橋の一つです。この大雨被害のためしばらくの間観光できない状況にあるという「青の洞門」ができたのは、江戸時代の1764(明和元)年、今から259年前のことでした。
鑿(のみ)と槌(つち)だけで、ひとり大岸壁に向かう
「その時であった。了海の朦朧(もうろう)たる老眼にも、紛れなくその槌(つち)に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が歴々と映ったのである……」。
これは菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の一場面、江戸時代に洞門開削の大願が成った瞬間です。この了海のモデルとされていたのが禅海(ぜんかい)という僧でした。
はたして、禅海という人物が、本当に実在して大岩壁に洞門(トンネル)を掘ったのでしょうか。
1981(昭和56)年7月、禅海直筆の板書が発見されました。その経緯(いきさつ)は以下の通りです。
洞門の中央に禅海とおぼしき地蔵菩薩がありました。禅海と共に洞門を掘った石工・岸野平右衛門が刻んだとされるものです。それを昭和になってトンネル内に移設しようとしたところ、地蔵の台座に板書が収められていたということです。そこには禅海自身の略譜や協力した人々の名前、禅海が羅漢寺に寄進した田畑の覚え書きが記されていました。そして末尾に、「寛延三年八月吉日 羅漢寺様 真如禅海これをしるす」とあったのです。
江戸中期、諸国行脚の途中越後から豊後(大分県)にやってきた禅海は, 耶馬渓に通りかかります。そこで禅海が見たのは、競秀峰の通行難所から転落する人や馬の地獄絵でした。通称「鎖(くさり)渡し」。人々は中津や羅漢寺へ行くため、鎖を伝い、命がけで岸壁を渡っていました。
この悲劇は、中津平野の田畑を灌漑する用水路工事に端を発していました。用水を引く取り入れ口は完成したものの、山国川上流の水位が上がり、岸壁下にあった歩行道が水没。地域の人たちは危険な鎖渡しを通らざるを得なくなっていたのです。灌漑工事のため参詣路が水没し,断崖にかけられた桟道が通行の難所となっているのを知った禅海は,ひとり羅漢寺の塔頭(たっちゅう)智剛寺に住して開削工事を始めたとされます。
禅海は、一念発起。ノミと槌(つち)だけで隧道(すいどう)を掘るためひとり大岸壁に向かいます。全長342メートル。49歳のチャレンジが始まったのです。
石に穴をあける鑿(のみ)を左手に、右手に槌(つち)で打ちつける
さすがに、青の断崖にトンネルを掘る大事業は、禅海一人の手では果てしもないことでした。近在で協力者を募りますが、あまりに非現実的な無謀さを笑われるばかりでした。
梅雨の長雨、南国の炎熱、昼は近郷を托鉢(たくはつ)して、夜は黙々と堅い岩を穿(うが)つ禅海。一日に何センチの世界であったことでしょう。何がそこまでさせるのか。それでも、小さな穴道は年輪のように少しずつ広がり、村人たちの気持ちも、嘲笑から疑心、関心から興味、そして同調から畏敬へと変わっていきました。やがて「痴と笑った者が和尚と共に槌を振るい、狂と誹(そし)った者が狂人のあとを追った」(『禅海和尚鑿道碑文』)とあります。中津藩主も動かされ、諸大名への寄付金募集を許可します。禅海はその資金で長州から岸野平右衛門をはじめ石工たちを雇いました。
悲願30年、光は抜けた
牛馬が並んで歩けるほどの隧道は、長さ308歩。明かり窓が4カ所、数十歩ごとに穿たれていました。この完成時、禅海は傘寿(80歳)に近づいていました。
禅海は、その地に地蔵を安置し、通行人の安全を願う大供養を行いました。その後、禅海は洞門の入口に小屋をつくり、通行人から1人4文、牛馬から8文を徴収します。むろん、私益のためではありませんでした。その資金でトンネル断面を拡大して、馬に乗ったままでも通れるようにするためでした。まさに、有料道路のさきがけと言えるでしょう。
そして、1774(安永3)年、88歳で生涯を閉じた禅海は、羅漢寺に田畑一町余りと銀12貫を寄付したということです。
青の洞門は、大分県・山国川の清流にそそりたつ絶壁の裾にあります。青は、小字の地名。たおやかな川面は、競秀峰(きょうしゅうほう)と呼ばれる岩峰を一幅の絵画のように映し、本耶馬渓の景勝地となっています。耶馬溪というネーミングは、その景色のあまりの素晴らしさに筆を投げたという江戸時代の漢学者、頼山陽が名づけたとか。現在、羅漢寺の参道入口にある禅海堂には、ノミと槌が保存されていて、国道横に一部残る洞門のノミ跡に禅海の執念が見えるようです。一日も早い被災地の回復を祈念いたします。