ソーシャルアクションラボ

2023.08.18

発達診断、次なる世界へのパスポート|子どもの発達に詳しい医師と話して、見えてきたこと|せんさいなぼくは、小学生になれないの?㉘

㉘最終回 2022年5月21日

きょうは、発達障害に詳しい小児科を訪ねてみた。少し前にHSC(ひといちばい敏感な子)の保護者に会ったときに、薦められた病院だ。とても繊細なむすこが、「発達障害」に当てはまるのかどうかは正直よくわからない。幼稚園時点では、発達診断を薦められたこともない。

ただ、むすこの特性が、集団のルール、集団のペースで動くことが多くの局面で求められる学校とはうまく合いにくいのは否めない。そんな子をもつ親が、学校と適した環境づくりを行う際にも、医師の助言や診断書が役立つことがあると聞いていた。

医師自身が、発達障害の当事者だといい、どんなスタンスで臨むとよいか、教えてくれた。以下が、話のおおまかなポイントだ。

発達障害にしろ、HSC(ひといちばい敏感な子)にしろ、それは発達の凸凹で、どんな人にも得意・苦手の凸凹はある。そのグラデーションにすぎない

・発達障害やHSCと言われる人たちは、その凸凹が強く出る人。得意なことは人並み以上にできることがあるし、苦手なことは極端に苦手だったりすることもある

・分布としては、中央値に凸凹のすくない多数派がいて、他者の気持ちなどに敏感なHSCと、他者とのコミュニケーションが得意ではない自閉症の子が両極にいるようなイメージ。問題は、少数派が多数派の優位な環境では生きにくさを感じやすいこと

・発達障害というのは、「障害」といっても、目が悪いことと同じように考えられる。目が悪ければコンタクトや、メガネで補正するように、発達障害も環境を配慮・工夫すれば、生きやすくなる

※近年は、障害は環境が生み出すものという、「社会モデル」の考え方も広がりつつある。また、発達障害は、「発達症」と表現されることも増えてきていて、「障害」という概念も変化の途上にありそうだ。ここでは、医師の表現に従う

・小さいころから発達障害があれば、療育(特性に応じて発達を促し、自立して生活できるよう支援すること。公的な支援が受けられる)に比重が置かれるケースも多いが、小学生以降だと対応としては学校などに配慮・工夫を求めていくほうが、大きな割合を占めていく

・目標を本人が努力して苦手を克服することにおかないこと。苦手なことは苦手なこととして、親が環境配慮や工夫をしていくことで、子どもを支えることができる

どういう場合に自分の子どもがどうなるか(うまく取り組める、癇癪を起こすなど)、そして、その状況でどう対応するのがいいかを、親が学校などに伝えること。それを診断書や意見書で後押しするような役割を病院が担う

診断名は、パスポート。環境調整のために必要に応じて使えばいい。そのために意見書や診断書を役立てていくという考え方。診断書や意見書があることで、学校が動きやすくなるケースはある。あくまで、その人は唯一無二のその人なので、診断名は便宜的なものと考え、必要に応じて使い、必要なければ使わなくてよい

※重要なポイント。発達検査の結果や医師の診断書を活用することで、加配スタッフの支援を受けられたり、特別支援学級に在籍したりできるようになる。なお、発達検査は、ある時点での子どものある側面を数値化し、困りごとをサポートするためのものなので、数値の高低は過度に気にしないほうがいいと思う(低くなければ支援は受けられない)。ポイントは、子どもが支援を受けたほうがいいと保護者が考えるか、また、本人がそれを望むかで、支援が必要と考える場合は、医師とその前提で相談してみるのがよい

・そもそも、環境や先生との相性がよいことがずっと続けば、診断名などいらない

・今後は、環境調整のプロセスにつきそっていく過程になる

学校とは対立しないで、協力関係を築いていくほうがよい

むすこの特性にどう向き合えばよいか、示唆に満ちていて、おおいに納得。そして、学校に配慮してもらうには早めに病院に相談するほうがいいこともわかった(不安がある場合は、入学前がベスト)。

話を聞いているうちに、困っている子どもを中心に、周辺環境=大人がチームとして目線を合わせ、いかにサポートしていけるか、同じ方向を向ける仲間を増やしていけるかが、大切になるとわかる。冷静さを取り戻し、自分のなかでエスカレートしつつあった公立学校システムへの怒りのボルテージもおさまっていった。

子どもを育てるとき、親は自分の経験をたよりにあれこれ考えがちだ。そして、自分に一番身近な子どものことはよく理解したつもりでいる。しかし、子どもは一番身近な宇宙人くらいの距離感で接するのがよいのかもしれない。

ぼくは、異文化理解をテーマとして、取材活動をつづけてきた。ひといちばい敏感なむすこと接していてつくづく感じるのが、大人と子どもは文化が違う、ということだ。したがって、その土地の言葉を学んだり、所作を身につけたりするように、子どもへの声がけや接し方も、学んでいく必要があると感じている。

子どもの行動が、「問題」化したとき、大人は子どもに変化を求めがちだ。 また、「親が変わるべき」と言われることもある。だが、果たして、本当にそうなのだろうか?

たしかに、子どもは成長に応じて変化していくし、子どもの特性を理解する過程で、親も変わっていく。でも、個人の特性や性格はそんなにがらりと変わるものだろうか? 実際のところは、個人が変わるというよりは、関係性を見つめ直し、未知の者との心の通わせ方を学ぶ、ということに近いんじゃないかと感じている。

だから、無理して変わろうとする必要はないが、学ぼうとするのは関係性を見つめ直すうえで役立つとも感じている。自分の思考、行動のくせ、無意識の言葉かけや、行為が、子どもにどう響いているのかを冷静にみて、立ち止まって考えてみる。それ自体は、意識さえすれば、さほど難しくないことだと思う。

自分の言動が、社会的に正しいかどうかではない。子どもが自分の言動をよろこんでいるのか、嫌がっているのかをみていくと、子どもがそれに対して、彼らの個性で〝正しく〟反応していることがわかってくる。

こうして、試行錯誤をつづけていくうちに、自分たちの葛藤のフェーズが変わっていることに気づいてきた。もはや、むすこは「行きしぶり」ではなく、「不登校」と呼ばれる状態にある。

そして、ここからの道のりは、むすこの特性の理解を深めていくことと、むすこの居心地のよい環境をつくっていこことという、長い長い道のりになるだろう。

【連載は、いったんここで終わります。ありがとうございました。コマロンでは、これからもこのテーマに向き合っていきます】

我が家の家族構成: むすこの父である筆者は現在、本づくりや取材執筆活動を行っている。取材や打ち合わせがなければ自宅で働き、料理以外の家事を主に担当。妻は教育関係者。基本的には9時~17時に近い働き方をしていて、職場に出勤することが多い。小1のむすこのほかに、保育園に通うむすこもいる。

【書き手】末沢寧史。異文化理解を主なテーマとする、ノンフィクションライター、絵本作家。出版社勤務を経て独立。絵本作品に「海峡のまちのハリル」(小林豊・絵、三輪舎)。出版社どく社を仲間と実験中。妻は教育関係者。本連載では、むすこの小学校入学直後に直面した行きしぶりと不登校をきっかけに、子どもという「異文化」について記します。